「37℃」についての雑感
Words : アラスカの荒らし屋
序論
この文章は元々は「インセストタブーの表現」と題された研究の一環として書かれた、書かれつつあるものである。
その研究の中で、特に女性によって表現されたインセストタブーの一形態として、37℃を取り上げたものがこの「雑感」であるが、元々がそういった性質のものである以上、インセスト、またはインセストタブーに関してある程度の説明は必要であろうと判断し、簡単にではあるが、説明を行う。
インセスト、つまり近親相姦は世界中のあらゆる地域、あらゆる時代において非常に厳しいタブーであった。それは社会現象であることを考えれば、特異に普遍的ですらあり、範囲を親子、兄妹(姉弟)に限ってしまえば、例外は存在しない。
もちろん、動物においても回避性向という形でインセストを回避する手段、仕組みは存在しており、人間もまたその例外ではあり得ない。しかしそれは、インセストアヴォイダンスと呼ぶべきものであり、ここで対象としようとしているインセストタブーとは明らかに異なる。
このように、非常に普遍的であり、かつ人間にのみ固有であることを考えると、インセストタブーは、多くの研究者によって言われてきたように、人間と動物とを分かつ証拠の一つであると考えて、おそらく間違いはない。
一方、もう一つの人間と動物とを分かつ証拠の一つとして、主体的な意味づけという可能性の獲得を挙げておきたい。
ここでの詳説は避けるが、人間は動物とは異なり、状況を主体的に捉えることができるようになり、状況の解釈に幅が出ることになった。それ故に、人間の状況に対する意味づけは本質的に不確定なものとなり、その所産である合意もまた本質的に不確定なものとなった。しかしこれは裏返せば、不確定であるが故の可能性が生まれたということでもある。これが、主体的な意味づけという可能性の獲得ということであり、人間と動物とを分かつ証拠の一つでもある。
この二つの、人間と動物とを分かつ証拠の間には何らかの関係があるのではないか、つまり、人間は主体的な意味づけという可能性を獲得したことにより、母を母と認識することが可能となり、そのために、インセストアヴォイダンスではインセストを回避するのが困難な状況が生じ、インセストタブーの必要が生じたのではないか、といのが基本的な立場である。
また37℃をインセストタブーを軸に見ていく際に、非常に参考になると思われる先行研究を紹介しておく。
「親族の基本構造」の中で、レヴィ=ストロースは親族関係と婚姻関係の研究に新しい視点を導入しようと試み、その中でインセストについての独自の興味深い解釈を示したのである。その解釈は、ポスト構造主義が唱えられる現在においても、意味と魅力を失っていない。
彼はまず、インセストの禁止を人間という生物における自然と文化との接点、あるいは自然から文化への移行の契機として位置づけた。それ自体は、特に新しい解釈というわけではなかったが、彼は、彼以前に存在していたインセストの禁止の説明の数々を、明快に否定した。
例えば、モーガンはインセストの禁止を、自然の結果についての文化的反省、生物学的な事実を人間が認識した結果、要するに遺伝学や優生学に基づくものとして説明したが、彼はこれを、インセストの禁止に言及した古代文献にそうした反省がいっさい見られないことや、遺伝学や優生学では交叉いとこの問題を全く説明できないことなどを理由に否定した。
同様にインセストの禁止を単なる自然の結果として説明したもの、つまり近親感の慣れが性的興奮を失わせているといったような主張や、インセストの禁止を単なる文化の出来事、社会的な過程の結果として説明したもの、つまりトーテミズム等をその根拠とした主張なども、明快に否定した。
その上で、彼はモースが「贈与論」で論じた互酬性の原理、つまり贈与と交換を親族関係の基礎ととらえ、インセストの禁止を説明する。それによれば女性は社会において交換の対象として扱われ、インセストの禁止とは女性を交換しろという命令に他ならない。
彼の親族関係においては母方の叔父とその姉妹である母、その夫である父、そして子という四者の組み合わせが基本単位であり、その理由がインセストの禁止の直接の結果として説明される。つまり叔父が、その姉妹である母を放棄して他人である父に与えたからこそ子が産まれたのであり、その女性の贈与によるコミュニケーションの必然こそがインセストの禁止であるとする。この必然、または要請としての交換の成立は、人が互いに近親の女性を放棄する、しなければならない、ことで成立するのであり、「私が妻を得ることのできるという事実は、結局のところ、兄弟や父親が彼女をあきらめたという結果」なのであり、「私は、隣人も同じように断念するという条件でなければ自分の娘や姉妹を断念しない」のである。
要約すると、インセストの禁止は外婚制の必要の産物であり、交換の現象であるということになる。
本編
37℃においても、基本的にはインセストはタブーである。つまり、櫂にとってインセストは、と言うよりは妹を好きなことは、もっと正確に言えば妹を好きなことを言うことは、タブーである。その理由は、櫂が「神さまだって長い間苦労してきた母さんのほうに笑いかける」と考えるからであり、「この幸せをこわせない」と考えるからからである。
櫂の言う「幸せ」とは、「うれしそうな母さんや弟の東亜」であり、「僕らはけっこううまくいっている」「新しい家は心地よくてずっと前からここにいるみたいだ」といった、家庭であり、家族である。事実、作中で描かれる桐原家は、幸せそうな理想の家庭、家族に見える。
櫂はその「幸せ」を「こわせない」と考えるから、「口に出したら この恋はおしまい」ということになる。家族、つまり義理の父、母、櫂、水結、弟の東亜、の5人が生活する家、の「心地よ」さや、「居心地よさ」を、自分の片想いを言うことよりも重要だと考えるから、櫂は言わない。櫂を押さえているのは、これだけである。つまり、「僕の家と 母さんと東亜父さんと水結みんなの幸せを 僕の恋は すべてめちゃくちゃにこわしてしまうから」ということ以外に、櫂にとって妹を好きと言うことをやめさせている理由は存在しない。
そして櫂は、「幸せ」と「片想い」を秤に掛けることすらしない。無条件で「幸せ」は「片想い」に優先している。
37℃は、櫂と水結を義理の兄妹として、さらに、水結が櫂の妹になった時と、櫂が水結に一目惚れした時とを同時とすることで、インセストタブーの図式を非常に簡単なものとして抽出することに成功している。櫂と水結の恋は、遺伝学、優生学的なものから無縁であるし、作中で語られる通り、シスターコンプレックスとも異なったものであるし、近親間の慣れが性的興奮を失わせることもない。そして、その抽出されたインセストタブーの理由は、家庭の崩壊の回避として表現される。
そういった理由で、櫂の恋は言うことがかなわない。その片思いの象徴は、題名に明らかなように、熱、または微熱である。普段から熱を出しやすい体質の櫂は、義理の妹、水結と初めて会う日も、「あの日も僕は朝から熱を出していたんだ――…」で、水結と初めてあって、「ひとめぼれしちまったよ――っ」となって、「顔が あつい…」「体温が あがる…」となる。それ以来、「水結の高校受験の日は雪で 僕は微熱を出していた」「たいてい一晩は熱にうなされて 起きれば視界はモーローとしている」という風で、「僕はたぶんこれからずっと微熱にうかされて生きていくんだろう 水結に会ってから下がらない熱に」ということになる。
言うことのかなわない片思いの象徴である熱は、「体温オーバーヒートする前になんとかする方法」が見つからないから、「このごろは僕と太陽とどっちが熱いのかわかんないくらいだ」「僕は夜のうちに2℃も体温があがってしまった」という風に、だんだんとひどくなっていく。
そして、この熱と対比されているものがある。それは、「冷やした桃」である。冷たい桃は、熱がある櫂にとって、とても気持ちいい。同じようなに「少しひび割れたスピーカーの音」と、「つめたい指」も、熱のある櫂に気持ちいい。冷蔵庫でつめたく冷やした桃の缶詰も、中学生の時に小遣いをはたいて聞いたクラブハートの少しひび割れたスピーカーから響いてくる拓也の歌も、蓉子先輩の冷やした果実より冷たい指も、櫂の熱に、あるいは熱のある櫂に、つめたくて心地いい。しかし同時に、「それで熱がいやせるわけじゃない」ものとして、それらは存在している。
しかし、存在しているのは「それで熱がいやせるわけじゃない」ものばかりでは、当然、ない。
櫂においては、「冷やした桃」以上のものは、うたに象徴される。「…だから僕はうたをつくっていた うたの中なら愛だの恋だの好き勝手言えるからだ」ということで、櫂にとってうたは、「少なくともうたっている間は本当のことが吐き出せる…」という、唯一のものである。
櫂の、誰にも言えない片思いを、吐き出せる唯一のものがうたであり、うたをうたうという行為である。だから、櫂の歌はラブレターである。クラブハートは、うたをうたえるから「冷やした桃」から「家とは違った居心地のよさ」になった。Pフラワーズのステージはうたをうたえるから「僕の唯一の隠れ家」になった。
だからクラブハート、またはPフラワーズのステージは、家と対比される。櫂にとって家は、「居心地がよ」く、「心地よ」いものでありながら、「本当のことが吐き出せる」場所ではない。その場所はクラブハートであり、それは「家とは違った居心地よさ」と表現される。だからクラブハートに秋野や水結が訪れ、Pフラワーズのステージが隠れ家でなくなったら、櫂はうたをうたえなくなる。
だから、「いちばんすきなものとひきかえに手に入れたはずの幸せなのに こんなに行き場がないと何が幸せなのかわかんないじゃないか」という事態になる。「行き場」がないのは、櫂の「本当のこと」であり、その「行き場」はクラブハートであり、Pフラワーズのステージであった。その「行き場」が無くなった以上、残っているのは「冷やした桃」しかない。それでは「熱がいやせない」から、熱はひどくなっていく。
だから、いちばんすきなもの、つまり水結と、ひきかえに手に入れた幸せ、つまり家庭さえも、おぼつかなくなってくる。「本当のことを吐き出し」たいから、拓也にそれを求める。
また、学校の軽音部、またはフランソワーズは、櫂にとってうたをうたう、つまり「本当のことを吐き出す」場所ではない。そこには水結と水結を知る人たちがいるから、ラブレターであるうたをうたうことはできない。その点で、明らかにクラブハート、あるいはPフラワーズと、軽音部、またはフランソワーズとは異なっている。しかし、軽音部、またはフランソワーズは、家とも異なっている。そこには「幸せ」も「居心地のよさ」もない。「冷やした桃」ですらない。しかし明らかに、クラブハート、またはPフワラーズのステージと家との対比とは別の意味で、Pフラワーズとフランソワーズの間には対比が存在する。
また、川土手も頻繁に登場する。櫂はそこでギターを弾いてうたをうたい、水結と一緒にそこで遊ぶ。しかし、川土手でうたうことは「本当のことを吐き出す」ことではない。が、この川土手の意味が見えてくるのは、現在分析対象としているもの以降の話である。
そう、ここで言い訳をしておくが、この「雑感」における分析で対象としているのは、コミックス2巻の途中、水結が櫂を「お兄ちゃん」と呼ぶまでである。だから序論でも、「書かれている」などと言っている。まあ、そういうことってことで………
気を取り直して、続ける。「本当のことを吐き出す」場所であることを求められた拓也を含め、登場人物達はそれぞれどのような役割をあたえられているのかということを、当然のことながらインセストタブーを軸にそれぞれ見てみる。
◆秋野聖
「秋野聖 1年の時から何を好きこのんでかまとわりついてくるやろうだ 一番苦手なタイプなので無視するほかないというのに」ということで、櫂は秋野を最初から好きではない。
その上、水結が高校に入学してからは、「水結を秋野の魔の手から救う」ことも必要になった。秋野は、明らかに、櫂に、水結をあきらめるように促す他人である。
レヴィ=ストロース的に解釈すれば、櫂は水結を、社会システム上の問題としてあきらめなければならず、それがインセストタブーである、となる。
櫂は当初、秋野だから水結を守らなければならない、秋野だから水結をあきらめられない、と考えていた、もしくは考えようとしていた。しかし、「たとえば拓也の彼女がマコちゃんじゃなくて水結だったりしたら 水結が好きなのが秋野じゃなければ 僕は理解ある兄になれたりするんだろーか」という風に、秋野であることは、やはり、大した問題ではない。
ここで興味深いのは、櫂の中では、水結をあきらめるかどうかというのが、必ずしもはっきりとした境界線としては存在していないことである。櫂の中では、秋野の、または他人の水結と、自分の水結との間に、誰のものでもない水結が存在している。だから櫂は、水結を自分のものにすること、つまり片想いを言うこと、更に言うならそれが受け入れられることだが、とにかくそれができないとしても、他人のために水結をあきらめることをしない。
このことは、交換の命令としてはインセストタブーだけでは不足であることを示している。インセストタブーは、この場合、櫂が水結を自分のものにすることを禁止しても、櫂が、水結が誰のものでもないこと望むことを禁止したりはしない。櫂が、水結が誰のものでもないことを望むことは、「すべてをめちゃくちゃにこわしてしまう」というようなことはない。だから、櫂は躊躇しない。たとえ、「水結の幸せは、僕以外の男と…」ということを理解していたとしても。
◆並木蓉子
「…やっぱ 少し苦手かもしんないこの人…」と、櫂は、最初蓉子に対して好意的ではなかったが、「あの人が見せる少し思いつめてるみたいな表情が 自分もただの片想いだと語っているような気がしただけかもしれない」というように、やがて、自分と共通する部分を蓉子の中に見出していく。同時に蓉子も櫂に興味を抱く。そうして蓉子は、櫂にとってまっとうな恋愛の対象となる。
しかし、「冷えた果実よりつめたい指」が彼女が「冷やした桃」と、本質的に同じものであることを、雄弁に語る。それでも、いや、それだから、櫂は蓉子が気になる。彼女は「冷やした桃」だから、水結への言えない片想いという熱をもつ櫂には、心地よい。だが、同時に、「それで熱がいやせるわけじゃない」ことも明らかである。それに熱のある櫂と、つめたい蓉子とでは、似ているようでもどこがが違っていることも、ここから分かる。
でも、櫂は、うたをうたえなくなって、「本当のことを吐き出せ」なくなってしまうと、「冷やした桃」を求める。また、蓉子は、「そして僕は 水結以外と」「他人が入っていけない幸せ」をつくることを考えたときに、最も近い「水結以外」である。櫂と蓉子が恋愛することは、至極まっとうであり、蓉子は櫂にとって、そういう、まっとうな恋愛みたいなことを考えさせる存在でもある。だから、「僕は初めて水結を抱きしめながら 拓也と蓉子先輩の顔をかわるがわる思い出していたんだ」ということになる。蓉子と、そして拓也は、まともな、社会的に問題のない恋愛というものの、ある種の象徴でもある。
◆柄沢拓也
「あこがれのスターなんて はずかしくて口には出せないけどさ…」というわけで、拓也は、櫂にとって理想である。非の打ち所のない存在。と同時に、「あんなふうに 他人が入っていけない幸せ」を、一番好きな人、マコ、と作ることが出来る。櫂にはそれが出来ない。拓也は、「神さま」に意地悪もされなかったし、「偶然」も悪い風には作用しなかった、まっとうな恋愛をして、櫂の理想を実現している。櫂に「本当のことを吐き出す」場が無くなったときに、櫂は、それを拓也に求めた。
「拓也なら聞いてくれるかもしれない」という以上のものを、櫂は拓也に求めた。拓也なら「なんとか」してくれると、期待し、裏切られる。「拓也の言うことはあまりにも当たり前で現実的で いやに納得してしまうよーなことばっかりだ」と、理想の拓也でも、なんともならなかったから、櫂は、「僕は初めて水結を抱きしめながら 拓也と蓉子先輩の顔をかわるがわる思い出していたんだ」となる。
拓也も、蓉子と同じく、まっとうなものの象徴である。拓也も「本当のことを吐き出す」場としては十分ではなかったから、櫂の熱は逃げ場を失う。それでも、拓也は、櫂の理想であるのは変わらない。「神さま」に悪戯されず、妹としてでなく水結と出会えたら、という理想を拓也は体現している。
ここまでの分析を簡単にまとめてみる。先に述べたように、37℃においては、インセストタブーという社会現象を、非常に簡単な図式に象徴化させることに成功している。それは贅肉を省いた形でのインセストタブーの本質に迫るものであるとの解釈も可能ではあるが、そのような判断はここでは保留しておく。とにかく、その図式を見てみることにする。
37℃では、インセスト、つまり櫂の恋のタブー性は、家庭、家族、その幸せ、の崩壊の回避、に集約される。さらにタブーであるインセスト、櫂の恋も、櫂が水結を好きだということを言うこと、という部分に象徴的に集約される。タブーなのは、好き、なことではなく、好きなことを言うこと、でありその為に、タブー性は、家庭、家族、その幸せ、の崩壊に集約することが可能となる。この二つには密接な関係があり、すべてが、櫂と水結が義理の兄妹であることと、水結が櫂の妹になった時と、櫂が水結に一目惚れした時が同時であることによって、見事に協調され、抽出される。また、全ての登場人物、勿論櫂と水結は除く、は皆ある意味で、こわせない幸せ、の象徴である点も興味深い。
家庭、家族、その幸せ、の崩壊の回避、のために、櫂のインセスト、つまり、妹を、水結を、好きなことを言うこと、はタブーであるから、成就されない。37℃では、その象徴として熱、または微熱が表現されている。そして、その熱、微熱に関連して、冷やした桃、と、体温オーバーヒートする前に何とかする方法、がある。冷やした桃、は、気持ちいい、が、熱がいやせるわけじゃない。体温オーバーヒートする方法、は、櫂はまだみつけていないが、熱がいやせるものであろう。
さらに、好きなことを「言う」こと、にタブーであるインセスト、櫂の恋が象徴的に集約されているこから、言う、ということを軸にして、家庭やクラブハート、Pフラワーズのステージ、学校、軽音部等が表現されている。本当のことを吐き出せる、うたう、つまり、好きなことを言う、インセスト、櫂の恋がタブーでない場所として、Pフラワーズのステージ、また櫂が中学を卒業した後のクラブハートがあり、本当のことを吐き出せない、うたえない、つまり、好きなことを言えない、インセスト、櫂の恋がタブーである場所として、家庭がある。そして、同様に、インセスト、櫂の恋がタブーであるのだが、本当のことを吐き出せない、うたえない、だけでなく、嘘をつかなけらばならい、偽りのうたをうたわなくてはならない、つまり、水結が好きではない、と言わなければならない場所として、学校、軽音部がある。
ここで、おおよそ2つの三層構造が示されたのだが、2つの構造の各層は、しっかりと対応しているわけではなく、微妙にずれている。そしてそのズレの解明には、冷やした桃、である、櫂の中学時代のクラブハートがキーになるであろうが、それはここまでの分析では不十分である。
さらに、2つの三層構造と登場人物や、西野の項で示した2つの境界線との対応も重要であるが、それもここまでの分析でも不十分である。
情けない話だが、乞うご期待、というしかない。
だって終わらないんだもの……
次回、しっかりと4巻までを分析した結果を示すことを約束して、免罪符としたい。今回分析対象とした部分以降は、櫂の周囲の状況が、三層構造の下の方へシフトしていくことによって、話が展開していく。そこには、今までの分析では不十分だったところを補うのに十分なものと、新しい発見があることを期待している。
最後に一つ疑問を示しておこう。
「時枝はどこへいったんだろう?」
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