僕にとって岡野史佳作品は、なぜ、こんなにも大切なんだろう。なぜ、こんなにも色あせないのだろう。色々考えたけれど、やっぱり一言では上手く言えない。ただ、1つだけ言えることは、岡野史佳作品が常に、自分が大切にしていたい気持ちを思い出させてくれるということ。感動すること、嬉しいこと、わくわくすること、憧れ。何か、人が本来的に持っているような、自分を突き動かす感情。つまらない日常の中から、何か大切なものを見つける力。そんな肯定的な感情が、岡野史佳作品には満ち溢れている。
でも、それだけではない。岡野史佳作品が、非凡な、かけがえのない作品になっているのは、もっと大事なことをつかんでいるからだ。たとえば、「惑星Aのこどもたち」に登場し、その後の岡野史佳作品にも手を替え品を替え何度も登場する「アクエリウム」という言葉。「地球は宇宙の中にある水族館のようなものである」という物言いは、ともすれば教科書的なつまらない響きを含んでしまう。しかし、「惑星Aのこどもたち」では、この認識がどこから来てどこへ向かうのかという事を、3つのシークエンスのオーバーラップという形式で描いている。そうすることによって、この作品は、「感じる、気づく=発見する、考える、納得する」というプロセスを、荒削りで直感的かもしれないが、だからこそ誰にでも共感できる形で描くことに成功している。この構図は、実は岡野史佳作品に常に存在している構図ではあるが、とりあえず今回はここから、岡野史佳作品の探検をはじめてみよう。
実際に「惑星Aのこどもたち」という作品に沿って見ていこう。まずは、南洋で娘と暮らしている小説家ジャン・オーリックが「プラネットA」という作品を書き、娘のパウラがその作品に託された思いを受け取るまで。ここに、この作品の主題となる「プラネットA」という作品の断片が提示される。何かを「宇宙」(直接的な宇宙のイメージがオーバーラップされて描かれているが、暗喩として捉えればその後の様々な岡野史佳作品に共通する主題とつながる)から受け取ること、反芻すること、そして、だれかに受け取ってもらいたいと思うこと。ジャン・オーリックはそれを、「こどもたち」は自然にやっていることとして記している。パウラは、海で泳ぐことに、何かこう不思議な懐かしさを感じる。そして、その「感覚」と「プラネットA」が交差する瞬間が来る。「プラネットA」という言葉が「海の星=地球」と気づくことで、「こどもたち」が「わたしたち」であることに「気づく」。そこに託された想いも。ここから先、ここで提示されたイメージが幾重にも繰り返される。
この「プラネットA」のイメージをキーに、次のシークエンス、その「プラネットA」の世界観を自分なりの形で受容し、誰かに(ここでは、クラスメイトの中里に)伝えようとしている沢田碧のストーリーにシフトする。沢田は、いくつかの直接的、間接的比喩を通して、「この私の生きている世界」に対するイメージを形成しようとする。「私が星空を見る」という経験(ただ通りすぎてしまうことも可能な、他愛もない出来事)を、「プラネットA」という作品を通して、逆転させてしまうのだ。たとえば「星空から私をみる」という仮想的経験。その経験と「プラネットA」が交差することで、碧は、「宇宙の中の水族館」で生きている私を想像する。碧は、繰り返されるかわりばえのしない日常について話したあと、こう言う。「あたしは/その水滴の中で/生きているのね/宇宙の海の/1匹のプランクトン/みたいにね」。そして、このイメージに「どきどきする」。「私が」世界を見るのではなくて、「私がいる世界」を想像することで、何か別の大きな視点を獲得すること。そしてそれに「どきどきする」こと。それを伝えたいと思うこと。ここに、「気づき」の本来的な性質を見い出すことが出来る。つまらない日常は、手段を常に目的へと矮小化してしまう。学校に行くことが目的。勉強が目的。問題を解くことが目的。暗記することが目的。けれども、何かのきっかけから、一つの世界観を形成するような「気づき」を受け取ることもできる。それが、どれだけ「どきどきする」ことなのか、大切なことなのか。
そして、どこまでも飛んでいく飛行機のイメージをキーに、次のシークエンス、宇宙に行くことを夢みているアメリカの農村に暮らすウィル少年のストーリーへと移る。「空を、宇宙を飛びたい」という夢を持っている少年。大人になったパウラは、ウィル少年の兄であるマシューと結婚して、ウィルと出会う。「ぜったいに行くよ」と言うウィルに、パウラは自分の事を思い出す。そして、パウラはウィルに、「プラネットA」のことを話そうとする。パウラにとって南洋の輝く海が、碧にとっての夜空の星が、ウィルにとっては見渡す限りの緑あふれるトウモロコシ畑なのかもしれない。その事を、パウラが暗に語っている。
共時的に、人々の心に生まれた一つの大きな感情が、様々な場所で「プラネットA」という作品と共振しつつ、何かを気づかせる。その「気づき」が、生まれ、育ち、受け継がれていく様子が、この作品では一貫して描かれている。そして、こどもたちは常にシグナルを発し続ける。気づいてほしい想い、誰かに受け止められることを待っているシグナル。最後に、「ボクらはここだよ、ここにいるよ、きこえますか、きこえますか、きこえますか、…」という言葉でこの作品は閉じる。その言葉は、岡野史佳自身がこの作品の中に込めたメッセージを発信している合図のようにも思える。この作品にあからさまなメッセージ性があるわけではない。しかし、「秘密のシグナルを探してる/秘密のシグナルを発信するのだ」という言葉が、この作品に登場している。「気づき(言い換えるなら、内的な感覚経験と、記号列が交差する瞬間に起こる出来事)」を、どのように伝えることが出来るのか、という事をこの作品のテーマとして設定することが可能なら、同じ構図をメタレベルに適用し、この作品のメッセージ性をより明確に認識することが出来るのではないだろうか。
一つの見方をすれば、「惑星Aのこどもたち」という作品をこのように読むことが出来る。しかし、これでもまだ全てを汲み尽くしてはいない。40ページの短編で描かれていることなのに、あまりに膨大すぎるイメージが詰め込まれている。そして、この作品の持っている豊かなイメージは、一つの確固たる世界観として、岡野史佳の様々な作品に広がっていく。こういったイメージは、単に幻想的な彩りで描いてしまえば、それらは作品を透徹する視点を持つことはなく、単に作品を演出するフレイヴァーにしかならない。しかし、岡野史佳作品におけるそれらのイメージは、作品全てを形式化しようとする意思にまで昇華している。
機械と人間
「時のさまよい」
最初に「機械とは何か」という問題を立てよう。「少年宇宙シリーズ」に登場する自動人形たちは、まず、徹底的に「機械」である。それは、彼らが「ねじや歯車、ばねで動くものである」ということが繰り返し描かれていることからも明らかである。この「機械」という言葉が何を意味しているのかは、実は極めて難しい問題である。19世紀末において、F.ルーローは「力に対して抵抗力のある物体の組合せであり、各部分は所定の相対運動を行う」「人間に有用な仕事を行う」という定義を与えた。現代では、この定義によらない機械が多数存在している(エレクトロニクス機器においては、各種部品が力に対する動作、つまり機械的動作をする必要がない)ため、「物理量を変形したり伝達したりするもので、人間に有用なもの」というような定義に発展した。
さて現在、私達が持っている「世界に対する意識」は、意識する遥か以前に、この「機械」の存在を前提にしている。我々は、物理法則というものの存在を仮定しているけれども、この「自然法則がこの私達の生きる世界に適用できる」という考え方自体が、そもそも「時計」という機械が出てきたことにより生まれた考え方なのである。世界を、「時計」をモデルに考えてみよう。この「時計」という機械が生まれるまでには様々な紆余曲折があるが、16世紀後半にガリレオ・ガリレイによる振り子の等時性の発見があり、1659年のホイヘンスによる振り子時計の完成によって、十分な精度を持つ「時計機械」が完成したというものが基本的な流れである。この「時計機械」は、「部品」と「力の伝達」から成立しており、それらの部品の間には一つの「秩序=法則」が存在しており(振り子時計においては、振り子の等時性、という法則を基礎に動いている)、結果として「時間」という秩序が時計の針によって表示されている。これを自然にあてはめてみると、「自然」の中には、「部品」と「力」があり、それらの間には「法則」が働いていて、最終的に「秩序」が生まれる、というシナリオを仮定することが可能である。このモデルでは、「自然」を「ルールによって動く部品の集合」と捉えている。これは、デカルトの思想であった。そして、ガリレオ・ガリレイを起源とする「動力学と自然法則による近代科学モデル」は、ニュートンが万有引力の法則を発見し古典力学を成立させた時点で、完成する。以降、我々は意識せずに、世界を機械として見ている。
そして、その「機械」で作られた人形。オートマータ、オートマトンとも言う「自動人形」。そもそも「人形」とは、「人の形を似せてつくったもの」の意味であり、そもそもは呪術、宗教的意味合いが強い存在である。人形は、ヨーロッパでは中世以降、装飾、玩具として発達する。その過程において、技術の発展とともに生まれてきたものが、自動人形、つまり、機械が仕組まれた、動く人形のことなのである。と同時に、この言葉は、異分野でさまざまな転じて様々な意味を持つようになる。工学的には、人間のように、ある目的にかなった(比較的)複雑な動作をする機械のことを「オートマトン」と呼ぶし、現代の数学・情報理論では、更に抽象化され「外部からの入力に応じて内部状態が変化し、出力信号を外部に出す一つのブラックボックス(外からは内部を直接観察することが出来ず入出力だけが存在する仮想的な箱)」と定義されている。
「皇帝の新しい心」p.41〜p.42には、以下のようなチューリングマシン(一種のオートマトンであり、現在の全てのディジタルコンピュータのモデルである)に関しての記述がある。「ある(有限な定義が可能な)計算手続きを実行する装置を想像してみよう。この装置はどんな一般的形態を取るだろうか。われわれは少々理想化を行い、細部にはあまりこだわらないようにしなければならない。われわれが考えているのは実は数学的に理想化された「機械」である。我々の装置が取りうる異なる状態は離散的な集合をなしており、その数は(たぶん非常に大きいとはいえ)有限であるとする。これらをその装置の内部状態と呼ぶ。しかし、装置の実行する計算の規模に対しては原理上限界は設けたくない。」「上で述べたユークリッドのアルゴリズムを思い出そう。このアルゴリズムが働きかける数の大きさには原理上制限はない。この数がいかに大きくても、アルゴリズム――あるいは一般的な計算手続き――はまったく同じである。非常に大きな数の場合には、手続きに非常に長い時間がかかり、実際の計算をその上で行うためにかなりの量の「ざら」紙が必要になるだろう。しかし、数がいかに大きくても、アルゴリズムは同じ有限な命令の集合である」。チューリングによれば、あらゆるアルゴリズムの定義はすべて同値であるとされているので、この理想的「機械」のモデルは、ありとあらゆる「機械」の定義と同値である。歯車とぜんまいで動く機械も、やはり有限の内部状態を持ち有限の計算手続きにより状態が遷移していくものなのである。
この情報理論の「オートマトン」という概念は、人間の神経系をオートマトンとみなす考え方を導入することで「サイバネティクス」に接続する。この視点は、現代においては、人間の神経系をブラックボックスとして見て研究する「サイバネティックス」、生命を分子の運動として研究する「分子生物学」の確立により、「生命」すら機械とする世界観にまで到達したのである。そして、その機械で作られた人形は、果たして人間とどのように違いうるのか。
マドレーヌは人形ミュリエルに「ばかねぇ 人形がほんとはどんなものかしらないんでしょう」と言う。「わたし昔は自分が自動人形だなんて知らずに動いてたわ」「……つなわたりがうまくなったのはそのことに気づいてからなの」。そこには、この一連のシークエンスで問われている「機械の機械性」が現れている。「自動人形であることにきづいたから、つなわたりがうまくなった」というのは、プログラムが自分がプログラムだと気づいたからアルゴリズムを効率的に実行出来るようになった、と言うのと同じくらい奇妙なセリフである。ここには「自分には機械的なものも生命的なものも包括して持っており、機械性に目覚めたから機械として優秀に働くことが出来るようになった」という意味を読み取ることができる。ここでのマドレーヌは、殆ど人間の暗喩である。なぜならば、「自分が機械だと気付かなかった意識」とは、人間の辿ってきた道そのものだからである。
たとえば、自分を「走る機械」だと把握することにより、極限までの物理的トレーニングに耐え、短距離を走る「100m走」の選手。彼らはもっとも純粋な意味で「機械の機械性」を体現していると言えないか。人間の自我とはそもそも生命システムにとって「過剰」であり、その過剰さ(つまり、生物が本来本能として持っているものの代わりに得た様々な「可能性」)をただ一つの機能へと収束させることによって、我々は再び「機械」になることが出来る(これを、疎外と言い換えても良い)。これは一つな例としても、「自分が意識をする以前に既に我々は機械となるように訓練されている」という考え方は、極めてありふれたものである。たとえば、産業革命以前と以降の労働は全く異なったものであり、産業革命以後の「労働」は、機械にあわせて徹底的に合理的になるように調整されたものである。この「労働機械としての人間」が成立するために極めて非人間的な過程を経なければならなかったことは、イギリス産業革命史に端的に現われている。マドレーヌは言う。「それがどんなに哀しいことか、あなたは知らないのよ」。自分の持つ機械の機械性に目覚めるということは、錯乱せる多様性を捨て、人間の人間らしさを捨て、目的論的な機械になることだと言えるのかもしれない。ちなみに、過酷な環境に生きるほ乳類は、ほぼ成熟した段階で生まれ、しかるべきシグナルで攻撃し、しかるべきシグナルで攻撃をやめる。あくまで「機械的」に。それでは、私達人間は、私達の意識は、そもそも、機械ではないのだろうか。
コンラッドは言う。「…ぼく よくわからないんだ… どうして…かな」「人形と人間のちがいがさ」「どっちにもタマシイはあるんでしょ だってマドレーヌは生きてるもん」「ぼくはもし自分の中で歯車やバネが動いてても きっと気づかないんだ」「スリリングだろ?」。機械は、自分たちがどうやって動いているのかを気がつかない。しかし、それは全ての人間であっても同じである。自分がどうやって動いているのかについて、人間は知ることが出来ない。たとえ人間が何かを解析することが出来る能力を持っていたとしても、自分がどうやって動いているのかを解析することは出来ない。なぜならば、それをするためには、破壊的検査が必要になるからだ。人間は確かに、人間がどのようなものかを知ることは出来るが、それは、あくまで他人なのである。
レオンは否定する。「錯覚だ」「こいつらは無機質だ 内蔵のかわりに金属がつまってる」「店の時計とおんなじだ」「生きてしまいそうな線の上で あやうくつまさきだっているものだ」。「生きてしまいそうな線の上で」とは、あくまで認識する側の意識である。チューリング・テストというものがある。テレタイプや箱などで、そのメカニズムが分からないようにして、何だか分からないものとコミュニケーションがとれるようになっており、アクションとリアクションの累積の中で、相手が人間かどうかを判断するというテストである。わたしたちは既に「相手を人間だと思ってしまうようなもの」を作ることが出来ている。トイズヒルにおけるコンラッドも、振るまいはまるで人間のように見える。だから、レオンはコンラッドに対して「機械が生きているように私が認識してしまうぎりぎりのラインを揺れている」という意識を持ってしまうのである。先ほど述べたように、人間は自分を完全に分析的に知ることは出来ない。私が理解するのは全て他人の反射としての自分である。しかし、その「他人」が機械であるか人間であるのかを判断するのは、人間なのである。もし人間と全く変わらない機械が自然に存在するようになったとしたら、人間は自らが人間という生物であるというごく基本的な認識すら、疑わざるを得なくなるのかもしれない。
さらに、現代において我々は、自らを動かしている仕組みが既に電気仕掛けであることすら知っている。それは、「生命=DNA」という世界観に現われている。DNAが「自分自身を複製する手続きとデーターを持ったプログラム」であることは、既に確認されている。こういった計画を支えている「分子生物学的生命観」は、「人間が電気仕掛けで動いている」(人間は機械である)という認識を引き出すものであった。生命システムを分子の動きで解明することが出来るという分子生物学は、今やヒトの遺伝子コードを全て解読しようとするヒトゲノム計画にまで発展しているのである。人間は、ある一定のメカニズムによって自分自身を維持している。遺伝子は自らを複製し、細胞は分裂し、生殖活動により自分自身の多様性を確保しつつ、また新たな生命を創り出すのである。
コンラッドは言う。「ぼくはもし自分の中で歯車やバネが動いてても きっと気づかないんだ」。しかし、我々も、日常的に自分たちの中で行われている生命維持の化学反応プロセスを「常に意識している」わけではない。もし、生命活動においてもっとも下層にあるプログラム的なふるまいと、もっとも上層にある「脳で生まれる意識」の間に何か「有機生命体でなければ確保出来ない条件」が無いのであらば、人間の示す振る舞いに、もっとも下層レベルのアルゴリズム表現として「はぐるまとバネ」を使うことは不足なのだろうか。いや、不足のはずはない。
しかし、それでも我々は自らの意識を特別なものだと信じている。「魂」や「生命」という言葉を想定せずにはいられない。私達は現在までに、自分たちの動かす仕組みが、物理法則を超えた特別なものなのではないということを、サイバネティクスや分子生物学などの学問の発展により知った。ならば、この、人間の持っている人間性とは何なのだろうか。機械が人間と違うとしたら、仕組みが同一なのだとしたら、チューリング・テストが人と機械を分ける唯一のテスト手段ではないとしたら、いったい何が違うのだろうか。そして、何が同じなのだろうか。元々、人間という生き物は、夢や幻、そして死を目の前にすることで、死んでしまった肉体とは独立した何か、精神的な活動を支配する仮想的な実体を考えようとしてきた。それが「魂」である。多かれ少なかれ、宗教には魂の不滅という主題を見ることが出来る。そうした原初的な「自我の実体」についての問いは、機械論と生気論の長年の対立を経て、現代においては「脳の物理的な機能から意識を説明できるかどうか」という問いに発展していると言えるだろう。もし、私達が全て物理学で説明できる仕組みを使って活動しているのであれば、私達の自我は全て機械化することが出来る。これは、物理学の発展とともに少しずつ醸成されてきた世界観であるが、20世紀中盤にコンピュータが出現してからは、人工知能の可能性は一気に、優れて現実的な可能性として意識されることになる。アメリカでは1960年代末よりAIについての研究が盛んに行われていた。また、日本においては80年代に、AI的な高度な認知及び推論機能を持つはずであった第五世代コンピュータがICOTにより研究された。しかし、そのどれもが技術的困難に突き当たり、現時点までに自我を持つコンピュータは生まれていない。先ほどあげた「皇帝の新しい心」においてロジャー・ペンローズは、人間の意識は古典物理学の枠内で捉えることは出来ず、脳内における量子力学的効果を加味しなければ正確なモデルを作ることが出来ないという魅力的な仮説を提示したが、これは魅力的ではあるものの未だ極めて弱い仮説としての地位しか持っていない。
さて、私達は、にもかかわらず「私達の自我が物理的な世界の論理と制約を越える何かを持つ」という立場に作者が立っていることを、タマシイに関する描写から理解することが出来るだろう。また、同時に、機械が機械を越える何かを持ち得たときに、それを魂と呼びたいのだという意思をもそこから読みとることが出来る。この人間の持っている「魂」の源泉は一体何なのか。もしくは、機械もまた「魂」を持っているのだとしたら、それはどのように基礎付けることが出来るのか。その源を「時間と記憶」に求めるため、探究を続けよう。
時間と記憶(承前)
時間とは何か。この問いは、非常に難しい。「少年宇宙シリーズ」においては、この題材は、否定的(時間が無いとしたら?)という立場から語られている。まずはここからはじめよう。トイズヒルには「時」がない。昼と夜は任意に交換できる(これは、「時のさまよい」終盤の「幾千と幾万の夜を見続けなければならない無限の時を過ごす人形」の伏線である)。また、「だいたい円周の上を針がグルグル回るだけの機械で真の時間がはかれるものかね。もしそうだとすると、真の時間も実にルーズなものである」というせりふに象徴されるように、「トイズヒル」においては「時間」の規則が、現実世界とは全く異なっている。岩波国語辞典において「時間」は、「ある時刻と他の時刻との間(の長さ)。時のへだたりの量」、と定義されている。この言葉は、まずAとBという時間の地点があり、この間に「Aの後にBが来る」という関係が成り立っており、なおかつ、この間の「量」が計測可能である(時計が存在している)、という事を前提にしている。そもそも、この絶対的時間というものが、時計を前提にしているのである。時計という存在を前提としない場合、「時間」という言葉を定義することは大変難しい。トイズヒルにおける「時間」は、因果関係(Aの後にBが来る)のみが成立しており、時間の「スケール」には意味が与えられていない(だからコンラッドもミュリエルも「成長」しないし、トイズヒルも「永遠」なのである)。
時間の「スケール」に意味がないというのは、さほど奇妙な意識ではない。そもそも、時間という概念自体が生物学的に相対的であることは「ゾウの時間、ねずみの時間」(本川達雄著/1995/中公新書)で語られている。しかしながら「絶対的な時間」を計ろうとする行為自身が、人類社会の歴史であったこともまた確かである。近代科学における「時間」概念は、ガリレオ・ガリレイの「振り子の等時性」の発見からはじまり、最終的に、「ニュートンの古典力学にのっとった絶対的な物理時間」まで到達するが、その前と後で、私達の持つ時間感覚は全く異なっている。私たちが時計を持つ前、つまり、自然法則による時間計測方法を持つ前に広がっていた原初的な時間感覚は、非常に多様なものである。近代自然科学が成立する以前は、「主観的な時間」が人間の意識を支配していたのである。正確な時刻を計測する手段がなければ、当然のことながら古典物理学的な考え方は生まれない。よって、「現実世界=時計(=古典物理学的世界)」という理解と、「トイズヒル=主観的時間(=フラクタル的世界)」という理解が並立する(ちなみに、このフラクタル的時間というテーマで、第五作である「フラクタル・メモリー」が描かれている)。自然科学が成立する以前に人間が持っていた時間意識に関しては、「時間の比較社会学」(真木悠介/1981/岩波書店)が詳しい。また、一度、物理時間という絶対的な時間を得た後も、私達はより絶対的な時間を求めつづけている。たとえば、1秒の元々の定義は、「1平均太陽日の86400分の1」であった。しかし、その定義はテクノロジーの進歩とともに、「暦表時1900年1月0日12時における地球の公転の平均角速度に基づき算出した1回帰年の31,556,925.9747分の1」へ、そして現在の定義である「地球のジオイド面上のセシウム133の、原子の基底状態の二つの超微細準位間の遷移に対応する放射の9,192,631,770周期の継続時間」という所まで厳密化されることになる。しかし、テクノロジーが生んだはずの「正確な時間」という概念を、自動人形たちは逆に、持っていない。死を持たない人形たちにとっては、どれだけ正確に測られた時間も、否、時間を計ろうとするその行為自身が無意味なのである。どこまで詳細化されたとしても、「この私」が感じている「今」を過ぎ去る時間感覚は、私達の生の周期と外部の環境を、自意識が感じている所から発生する。
もう一つの方向から考えてみよう。生きられるものにとっての永遠とは、何かを数えることである。私達が生きている間、私達という種族が生きている間、そして宇宙が存続する間、数を数えつづけたとして、それが上限に達することは永遠にない。0と1という記号、そして「1を足す」関数(これを「後継者」の意のSuccessorの頭文字をとりSと名付けよう)、そして「0が自然数(厳密には、自然数Nの部分集合U)であり、あるXが自然数のとき、S(X)も自然数である」というルール(数学的帰納法)。これだけで、「自然数」という数の集まりが生まれ、その自然数は「無限」である。私達が生きられる世界における永遠とは、そういった類の、「決して到達しえない点である無限」として表象される「もの=こと」である。この事が意味しているのは、生の徹底的な有限性である。その有限性が目の前にさらけ出されるとき、私達が生きている間に出来ることが、如何に少ないかということが明らかになる。それでは、人形達にとっての(作られたものとしての=計算機械としての)永遠とは何なのだろうか。計算機械にとっての永遠とは、記号の一種である。それは無限を意味する「記号」であり、無限を足したり引いたりすることが可能である。それらは、同じものでありながら、決して交わることのない異なる存在でもある。「トイズヒルが永遠である」という言葉の中には、生きられる人間にとっての永遠と、機械にとっての永遠(記号としての永遠)が折りたたまれており、それはレトリックであるだけではない、何か普遍的なものを指し示している。これがまず、機械と人間の本質的な違いである。
さて、実際にはどのように描写されているのか。「時のさまよい」の実質的なストーリーは、バレエを踊っている少女のシーンから始まる。この少女ミュリエルは、自分を「人形」だと思いこみ、一定時間で「ねじがきれたから」と突然眠りこけてしまうという奇癖を持っている。彼女は、両親をひどい事故で無くしてから、そのショックで現実を直視出来なくなった。おばさんは「いいかげん目を覚ますのよ」「あなたは人間の女の子じゃないの!」と言う。彼女は「自分は人形である」という「夢」を見ている、と周りから思われている。このように、彼女は、自分を哀れみの視線で見る現実世界に疎外感を抱き、夢の中の世界「トイズヒル」に迷い込んでくる。
最初、彼女は「人形=生命を持たない=感情を持たない=悲しみを知らない」という理解を持ち、それゆえ人形になりたがっている。この段階では、かたみの時計を「自分の命」と言っている点が興味深い。既に、「時を刻む=命」という認識を、かたみの時計が支えている。そのようなミュリエルを支えるように時計屋のせがれのレオンが頑張っている。彼はミュリエルのことを気にかけており、彼女がどのような行動をしても、見守っていたり助けたりしている。レオンはミュリエルに恋をしており、彼の行動は、人形になりたいというベクトルを持つミュリエルの行動に少なからず影響を与える。
ミュリエルは、不思議な世界を夢見る。そこは「トイズヒル」といい、綱渡りをする自動人形のマドレーヌがいた。彼女は動いてしゃべり、あまつさえ事物の理解や会話が出来るのである。マドレーヌとミュリエルの差異は、彼女が金属のボディを持ち、歯車やばねで動いていること。ミュリエルはマドレーヌをうらやましがる。そして、彼女が現実世界に戻ってくると、自分のことを疎外するいやな現実が待っていた。ミュリエルは、レオンに呼ばれるようにして現実世界に戻ってくるが、時計屋の壁にある時計が様々な時間をばらばらに示しているのを見て「どうしてひとつもおなじ時間をさしてないの」「こわい」と言いその場を去ってしまう。「時計」はこの場合、時のスケールを規定するものではなく、線形的な歴史観(「今」は全ての歴史の中でただ一回しか現われないという考え方)において、唯一の点としての時間を指し示すものとして機能している。ミュリエルがこういった考え方に拒否を示していることもまた、重要な伏線である。「死」というものが絶対的な虚無として現われてくるためには、こういった歴史観が前提にならなければならないからである。だからこそ、彼女は「死=別れ」につながる「成長」を拒否しており、時が否応なく彼女に変化を強いるということに対して、嫌悪感を持っている。
ここで、狂言回しとして「占い師」が登場する。占い師の言葉に促されるように、レオンはミュリエルと呼応する人形を探し始める。その時、トイズヒルの人形が展示されている自動人形を訪れることになる。現実世界のトイズヒルでは、フレアマン博士とジャン・ジャリー・レニエは、フレアマン博士最後の自動人形展示会を催していたのである。ミュリエルは、現実世界に存在するコンラッドを見て失神する。「トイズヒル」にいる「コンラッド」と、現実世界に存在する「コンラッド」が交差するシーンは、シリーズを通して2回あるが、ここはその中でも、「トイズヒル」が「一人の老人が抱く」夢から「多数のものからなる小宇宙」としての夢へと交錯するシーンであり、トイズヒルの質的変化の端的な現れとして見ることができる。
「現実世界・人形のコンラッド」に導かれるようにしてトイズヒルにやってきたミュリエルは、トイズヒルの「コンラッド」も人形であると理解し、「成長=(ママに似た容貌になる=悲しみを喚起する)=時計」という理解から、「わたしの命」の象徴である時計を投げ捨てる。そして、フレアマン博士に、「自分を人形に作り替えて」「全部そっくりじゃなきゃだめ 髪の長さも 背の高さも!」と言う。ここでも「感情=自我=有限=時計」という理解と「人形=生命を持たない=感情を持たない」という理解は相反する対立概念として把握されている。
ここでコンラッドが問いを発する。「ねえ……大きくなるってどんなこと?」「ぼくはずっとこのままじゃないの?ぼくもジャリーさんみたいに背が伸びる?」そして、博士は「そんなことはこの宇宙の法則ではない」「何も考えなくていいんだ」と答える。コンラッドは「知らないものが世界にはこーんなにあるんだって気づくだろ」と言っており、明らかに「成長」と「時間」に興味を持っているにもかかわらず。そして、コンラッドに数多くの知識を教えているにもかかわらず。しかし、それは当然なのである。トイズヒルに時間が無い以上、「大きくなる」という言葉は決して存在しない。コンラッドの世界には、「成長」はあり得ないことである。たとえば、ユークリッド空間においては、「平行線は決して交わらない。しかし、非ユークリッド空間では可能なのである。この2つの世界では公理(理論を展開する前提)が異なっており、非ユークリッド空間においてそれが可能だからといって、ユークリッド空間において「平行線を交わらせることが不可能なのかどうか知りたいから、それを知るためにさまざまな作図を試してみる」ことに意味があるだろうか?公理が違うために、その命題はそもそも、全く考えること自体が無意味なのである。これが、「トイズヒルでは成長するのは不可能である」という言葉と同じ形式を持っている。このように、任意の公理の組み合わせでその宇宙を構成することが出来るならば、まさにその意味で「フレアマン博士の創り出した世界」がトイズヒルなのだ。彼は、本当に数多くの自動人形をつくり、その集合体は、「宇宙」となって「自然」となって、彼の世界を形成する。
さて、現実世界では、ミュリエルは目を覚まさず体温や脈拍も下がる。夢の世界――トイズヒルに心を奪われているのだ。レオンは眠り、再びトイズヒルへむかう。トイズヒルでは、ミュリエルとそっくりの自動人形が出来上がっていた。自動人形が出来たことにより、魂は彼女の体を離れどこかへ飛んでいく。自動人形のミュリエル(人間のミュリエルではない)は、彼女の感情を継承するように作られており、「だってミュリエルが望んでいたことなのよ」「あの子はわたしになったのよ」と言う。その踊りは、あくまでゼンマイと歯車による機械の動きだった。この、「あの子はわたしになったのよ」というセリフは一体何を意味しているのだろうか。たとえば、たった今の「私」が外部に対して示すパターンを全て汲み尽くしたプログラムがあったとしよう。これは、現在の「私」をブラックボックスとして扱い反応を全てトレースすれば、原理的には実現可能であろう。しかしそれは、内部に「私」という意識を持っているだろうか。私の理性が示す思考の外面的振るまいを全て汲み尽くしたとしたら、それは「私」だろうか。おそらく違うだろう。その「私」は、永遠にその瞬間の「私」でしかないのである(しかし、これはミュリエルの望んだものでもある)。
そうこうしているうちに、現実世界ではミュリエルの息が止まってしまう。魂がはなれて死ぬまで、あと少ししかない。レオンは、ミュリエルが「わたしの命」と言った時計を復活させることで、ミュリエルのたましいを呼びもどそうとする。ミュリエルは「あんなもの持ってたらわたし大きくなっちゃう もういらないの」と言う。レオンは必死で時計を探そうとする。時計を探している時に、思い出したようにコンラッドは言う。「人形でも目はそらせないと思うな」。これは、ミュリエルが「人形なら哀しいことも感じなくてすむ=目をそらしたがっている」に対応する言葉だ。レオンは、時計を使ってミュリエルの時間を取り戻そうとする。フレアマン博士は、昼と夜をまばたきのように入れ替える。その幻想的な風景。「だって…ね レオン マドレーヌは言ってるよ」「生きてるっていろんなことを見ることだって」「こんなものだってみれるんだもの きっと目なんかそらせないよね…」とコンラッドは言う。コンラッドは結論を出したのだ。「生きてるっていろんなことを見ることだって」と。何かを記憶しようとする意思には、プログラムに支配されているだけではない、何かがある。常に、遭遇する偶然的な状況を取り込みつつ変遷する何かは「生きている」のだ。これは、各個人が、遭遇した外部環境を「認知・記憶」したもの自体が、その人間を構成しているという考え方だ。人間の自我は、プログラム(ぜんまいと歯車=遺伝子プログラム)なのではなく、その上にあるデータであるという考え方がここに生まれる。
そして、私達がその記憶を外に表現しようとする行為、たとえば「名付け」という行為によって私達は、自らの意識の固有性を獲得する。柄谷行人は、「単独性」を「固有名によって語られるほかならぬこれ」であると言っている。そこには、客観的にはありふれているどのようなものでも、自分にとっては固有名で示される「ほかではないこれ」があり、その中に「この私」があるのだ、と言っている。それは、ラッセル的な記述理論では言い尽くせない、つまり「私」という単語を「AでBでCで……という人間」と、いくら言い換えてもまだ言い換えられない何かであり、どのようにありふれていても(「私」がありふれているという意識が、近代を支える大きな基盤である)、大量生産されている工業製品でも、単独的でありえるということを意味している。つまり、どんなに無個性であったとしても、「記憶」「学習」(そのメカニズムは今はあえて問わないとしても)によって、「ほかならぬこれ」(固有名)が見いだされると、そこから単独性が生まれる。それは、ほかの何ものとも変えられない単独的なものなのである。(この、「ほかならぬこれ」には少しの特殊性もない)
こうして私達は、人形の「コンラッド」やミュリエルが「生きていること=自我を持っていること」というものは何なのか、ということを獲得するまでの道のりを見てきた。機械と人間がたとえ様々な部分で違うとしても、ある一つの考え方の下で、形式的に「魂」というものを捉えることが出来るのではないだろう。そして、「意識」がある、としたら、さらに私達は、その「意識」の外部がどういったものなのか、という問いに発展する。つまり「現実」と「夢」の問題である。私達が生きている世界は「この世界」であり、「この世界」を越える何かは通常存在しない。しかし、私達の意識がいる世界が「この世界」である必然性は無いのである。そして、「ラヴェンダーの軌跡」で描かれているのは、「この私」がどういった世界を生きることが出来るのか、という問いなのである。
現実と夢
「ラヴェンダーの軌跡」
「ラヴェンダーの軌跡」の冒頭。フレアマン博士が逝去して1年。ジャンは、トイズヒルを去り、山間のアンティークショップに身を寄せている。そこには、婚約者のマリユーズがおり、彼は彼女と結婚しこの店を継ごうと考えている。そんな頃、ジャンは突然、ある少年の夢を見る。彼は、言う。「…どうしたの 行こうよ…」と。しかし、時計の音が彼を現実に戻す。そこには、マリユーズがおり、彼女は「こんなたくさんの時計の中でよく眠れること」と言う。この時点で非常に重要なことは、ジャンは時計という機械に対して、未だ何の過剰性も見出していない点である。むしろマリユーズこそ「時計は死をつかさどるなんて誰が言ったのかしらね」と言うのである。
そこに、どこかで見たような少年が、人形の修理を依頼しに来る。その人形は、フレアマン博士の作ったものだった。そのことに気づいた時には、少年は既に姿を消していた。その日、ジャンは少年の夢を見る。目を覚ました後、夢の中の少年と、今日来た少年、そして少年がくる前に見ていた夢に出てきた少年がそっくり同じだったことを気がつく。それらは事実、似ていた。トイズヒルでフレアマン博士が最後に作り上げた人形『コンラッド』に。
ジャンは、「歴史美術博物館」に展示されている自動人形の『コンラッド』に会いに行く。そこでは人形を管理しているシュミット氏がいた。今や『コンラッド』は、博物館の代表的な展示物になっていた。氏は「世紀の大仕事だね」と言う。ジャンは、「ええ…でもそんなんじゃないですよ…大体あれは」と言ったところで口ごもる。『コンラッド』は、フレアマン博士が自らのために、一緒に暮らすために作ったのだと言うことが出来ない。シュミット氏は言う。「こんな所で仕事してるとね つくづく思うんだよ」「人の肉体は 消えても 魂は残るってね」「それがまた人の魂を 魅きつけて とりこんで 膨張していく 宇宙みたいなもんさ」と。残された人形たちの小宇宙は、フレアマン博士の内的宇宙は、人々の想いをまきこんで膨張する。ジャンはコンラッドを見て、驚く。店に来た少年も夢の中の少年も、コンラッドに似ていたのだ。ジャンは思う。「緑の目」「…なぜ気がつかなかった…」「この目を入れるのは僕も手伝ったのに」「でもなぜだ?」と。そして、振り返るとコンラッドがいた。コンラッドは「思い出してくれたね」「いつまでこんな夢をみているつもり?」「行こう ジャリーさん」という。ジャンは、現実に固執する。ジャンは言う。「そうだろうな きみは夢だよ『コンラッド』」「どこへ行こうっていうんだ?ガラス箱の中か!?墓場か!」と。猫のカノープスは言う。「猫がしゃべった位で驚くようなつまらん世界の夢をみ続けるなんざ おまえも落ちたね ジャン・ジャリー」。ここでは、完全に夢と現実が反転している。それはジャンのセリフにも現れている。ジャンは言う。「じゃあなんだ この世界は夢だっていうのか!?」と。コンラッドは言う。「だから行こうって言ってるじゃないの 帰ればきっと思い出すよ」。ジャンは、トイズヒルへと帰ったのである。その世界が「現実なのか、それとも夢なのか」ということは、その世界に所属している限りは判別不可能である。夢の中でその世界が夢だと判別することは、その夢が無矛盾である限り不可能である。つまり、その世界を夢か現実かを判定するためには、常にその世界からずれた視点を必要とするのである。だから、コンラッドは「トイズヒルへ行こうよ」と言うのだ。どちらの世界が現実かを知るために。あるいは、どちらも夢なのだということを知るために。
彼らはトイズヒルに来る。幻想的な風景が広がる世界。コンラッドはフレアマン博士に再会する。フレアマン博士は、この世界で「生きて」いた。ジャンが「フレアマンさん!生きてたんですか」「僕はあなたのお墓に土をかけたんですよ!」と言うと、フレアマン博士は言う。「きみはとんでもなく長い夢をみていたのだ」「今 この世界こそが きみのもともといるべき場所なのだよ」「きみは私の助手だっただろう?」と。そして、マリユーズがいた世界こそが夢だったのだ、と。ジャンは、彼女は確かにいたんだ、と言う。しかし、博士は言う。「そう… きみがいると思えば たとえそれが虚像だろうが 存在するね」と。トイズヒルでは、マリユーズは博士が作った自動人形だった。トイズヒルにとっての夢=現実世界と、トイズヒルの世界、その関係を博士は語り始める。
「宇宙創造の話をしようか まずは無だ 冷たいガスの雲があるだけだ」「ところがその深淵から湧きおこるエネルギーは ビッグ・バンをひきおこし 1つの宇宙を形づくる」「そして 生命の誕生」「それがたまたまガラス箱の中で起こったとして なんの不思議がある?」「彼女は 深い眠りの中で 夢を見る」「そのパワーの増幅は 微小な宇宙を形成し やがて生命を宿し」「きみと出会う …いいかね これはすべて夢の中のことだ」「きみたちの出会いは 夢の中の事実」「しかしカノープスの言うように 夢は所詮夢だよ」。私たちが、夢の中での出会いを片づけるように、博士は現実の出来事を片づける。しかも、夢は所詮夢だ、と。ここでは、夢と現実が逆転されているわけではない。トイズヒルこそが強固なリアリティを誇っているのだという意識は微塵もなく、むしろ、全く逆に、このトイズヒルでさえ夢と同じだということが語られている。つまり、夢と現実という捉え方をしている限り、この二つの世界は同型であり、どちらを選ぶかは全くの任意なのだ。しかし、ジャンはあくまで現実にこだわる。そして、人間と自動人形の差異にこだわる。
ジャンはコンラッドに言う。「なぜだ? なぜきみは生きているんだ」「生きて 動いて 思考して」「その目を入れたのは 僕だぞ!」。作ったものは、作られたものに対して常に神の立場に立とうとする。しかし、コンラッドは言う。「知らないよ そんなこと」「ぼくは こうして 生きているんだもの」「あなたはどうなの ジャリーさん」「DNAとばねの違いがあなたにはわかる?」。コンラッドにとって、「なぜ生きているのか」「どうやって生きているのか」という事は、関係ない。「こうして既に自分は生きている」という生の事実性のみが問題にされているのだ。つまり、メカニズムはどうあろうと、「生きている」なら「生きている」ということだ。ここでは、「生きている」という言葉の無根拠性と明証性が問われている。この問いは、3作目「時のさまよい」でも「私が、人形として、生きている」ということはどういう事かを通して応えられている。もしも、人間と自動人形に違いがないとしたら?フレアマン博士は言う。「言ったろう? これは現実 私の宇宙」。この世界もまた、現実なのだ、と。「どうした?ジャン」「きみも ねじが きれたかね」「……………冗談だよ」という言葉の裏には「ここは私の宇宙だ」という言葉に背負わされた世界の重みがある。
そこでジャンは目が覚める。ジャンは、コンラッドを見ているうちに気を失っていたのだ。マリユーズが心配そうにこちらを見ていた。ジャンはマリユーズを抱き、思う。「生きている 夢じゃない」と。ガラスケースの陰で「コンラッド」がほほえむ。「夢の中の事実」「現実の事実」。それが事実であれば、何が違うのか。ジャンはアンティークショップの時計にかこまれ、苦しむ。「時計の音が 耳につく」「動悸と重なる」。まるで、体が時計によって支配されているかのように。歯車によって律せられ、ばねによって動力を得て。ジャンは考える。「シリンダーにカム 歯車 らせん 頭文字のマーク」「…そうだ 違いなんてわかりゃしない たとえ そんなものが 体の中で 動いていたって」「僕は 僕だ」と。結局、どのようなメカニズムで動いているか、などということは「任意」なのだ。それは、「僕は僕だ」という思考する意識を実現出来るかどうかであって、そこに「生」というものの一つの形があるのである。
ジャンはコンラッドに言う。「きみは生きてるよ」と。ジャンは、現実世界に対して「…僕はここも気に入ってるんだけどね」と言う。コンラッドは「夢は覚めてしまえば終わりだよ」「あなたはあの世界の一部だもの」と言う。どちらが現実であろうと、あるいはどちらも夢であろうと、夢は覚めてしまえば終わりなのだ。そして、ジャンは「選択」する。様々な世界がそれぞれ任意性をもって広がっていたとしても、どれかを選択しなければならない。これは、我々に常にどれかの世界を選択しなければならないという限界があるからだ。しかし、その世界を超越することは出来ないが、任意性を持った世界間を翻ることは出来る。しかし、ジャンは捕らわれる。その世界の一部を担う役として、「トイズヒル」という夢の世界を成立させるために。しかし、現実世界でも、われわれは社会を成立させるために、役割の中に捕らわれているのではないか。我々は、現実世界の関係性の磁場の中で動いているに過ぎないのではないか。我々は、不自由なのだ。どのような任意性を前にしたとしても。我々に出来ることは、ただ、その不自由さを自覚することだけなのかもしれない。しかし、その中には常に自由へ向かっての可能性が含まれているし、私達は、違う世界を想像し自らの中に受け入れることによって、その自由への道を自覚することすら出来るのである。
喪失と回帰
「黄金の棲処」
「CALL ME」
「ドリームワークス」
「黄金の棲処」を読んで、そして1994年頃からの岡野作品を思い返して、ほぼ「喪失と回帰」という回路で一線上につながることを確認する。回復できないものを回復する上で、作動するメカニズムにさまざまなものがある。代理、象徴、継承、…。その間に様々な差があれど、全ては失われたものの回帰がいかにして現出するかという事をテーマにしていることには変わりない。たとえばこの作品においては、過去の記憶を持たないシエルが、かすかに記憶に残っている兄「リュー」を探すために、最果ての惑星「輝く雲」を訪れる。その場所では、過去を「夢見させる」ことで喪失を代償させるシステムが働いている。しかし、「夢」を見させるための「記憶」は、時間によって徐々に失われていく。私達は過去の喪失の代償を得るだけでは生きていくことが出来ない。だから、私達はこの状態を克服するために、過去に目を向けることを徐々に忘れ、現実の「誰か」にその想いを振り替えていくという構図を想定することができる。それは、「黄金の棲処」においてはシエルにとってのニモであり、フランシーにとってのルカという形で現われている。ただ、シエルにとってのリューは、回復という形で現われる。兄「リュー」は、ただ一人事故から生還するが、脳以外の殆どの部分が失われている。しかし、リューはシエルのことを記憶しているし、シエルはその記憶から、リューのことを兄だと思う。しかし、たとえば脳だけが同一な異なる外見の人間がいたとして、それらの間の同一性を我々は認識することが可能だろうか。人格の同一性というものが、本当に脳だけに起因するのかだろうか。喪失したものは、全く同じ形で蘇ることは無い。ここにも、一つの補償メカニズムが働いている。
同様のストーリー構造は「騎士とエンゼル」にも見ることが出来る。事故によって失われた「レイ」は、パールやジェシーにとって、決して忘れられない、埋め合わせのきかないものである。しかし、その喪失を抱えて生きることは難しい。私達の生が有限であることを、その喪失は教えてくれる。だから、人間はその空白を抱えて生きることしか出来ないし、喪失した部分には何かが回帰する。以下例示することはしないが、「宙の約束」や「地上の星座」などの作品も同一のパースペクティブを持っている。ただ、その中でも、「ドリームワークス」と「CALL ME」の2作品は、際立って興味深い構造を持っているので、もう少し考えを進めてみよう。
この2作品は、不思議な作品だ。意識的にか無意識的にかはともかくとして、一種の不条理が、仕掛けられている。これらの作品は、「固有名の唯一性」という中心点を置くことで、明確に「少年宇宙」の対極に位置づけることが出来、なおかつ、包括的には、少年宇宙の持っていた世界観の一端に位置する。これらの作品が持っている構造は、単純である。ここには、「存在するはずの無いA(言い換えるならば、交換不可能なAの喪失)」に対して、何か別の実在を割り当ててしまうというメカニズムが存在するのである。これは、前にあげた「記号だけが異なっていても実在する対象が同一であることが保証できるのか」という問題の対極にあり、「記号が同一だったとしたら、その実在がいくら異なっていても(それは交換不可能なものが失われている以上、記号の同一性以上にその同一性を保証するものが無い)同一なのだろうか」という問題が扱われている。
「ドリームワークス」において、ハロルド・ヴァーリィは、実在の人間「パペット」を元にした立体映像「リンク」に恋をしていた。しかし、「リンク」がテーマパークの閉鎖とともに消滅した後、実在の人間「パペット」が実は「リンク」のモデルであったことが彼に示される。立体映像だったはずの「リンク」は「パペット」として実在を獲得し、なおかつパペットもハロルド・ヴァーリィに恋をしていることにより、二人は結ばれる。「CALL ME」においては、恋人を残して宇宙に旅立ったウォルター・アンダーソンは、宇宙船の浦島効果によって50年後の地球に帰りついたときに、クローン人間として複製された恋人に再び出会う。ここで、ハロルド・ヴァーリィやウォルター・アンダーソンが見ているものが「記号」である限りにおいて、彼らの内的一貫性は保たれうる。彼らにとっては、「リンク」や「ミラ」が目の前に存在しているように見える。しかしそこには、指すべき対象を失った幽霊のような記号が、なにか別のもっとも近い意味(対象)と結びついてしまったような「ねじれ」がある。
ドリームワークスにおいて、(人工生命のコンピュータグラフィックスであった)「リンク」が繋いだのは、主人公に対しての仮想と現実だったが、パペットとリンクをつなぐ「リンク(鎖)」は、遠い昔に消滅したはずの、失われた鎖なのである。パペットのハロルドに対する想いと、ハロルドのリンクに対する想いは、交じりそうで決して交わらない。「CALL ME」も、ほぼ同様の構造を持っている。クローンが同じ記憶を持てるはずがない。ミラという人間は既に失われており、同じ遺伝子を持っていたとしても新しいミラはミラではなく、ミラの姿をした別の何かである。これは、新しいミラの側からストーリーを見れば明白であろう。つまり、この2つの作品に特筆すべきなのは、登場する男女2人における絶対的非対称性である。片側では、本来指すものが無いはずの名前が実在を獲得してしまったかのような「非現実感(決して帰ってこないはずのものの帰還)」があり、もう片側では、異なるものを無理矢理イコールで結合してしまった「軋み(私はミラではない、私はリンクではない)」がある。これらの作品の中には、かすかに感じられる透明な悪意を通して、つながるはずのない「こちら」と「あちら」が接続されている。
旅の途中に記すこと
ということで、96年に書いた「岡野史佳の小宇宙」を、加筆しもう一度再構成するという試みは、ここで一旦終わることになる。過去書いたもののうち、不充分な部分を一気に削除してから書き始めたのだが、筆者の能力的及び時間的不足により、またもや不完全な議論に留まった部分も多い。過去の議論から大幅に書きかえることが出来なかった部分も多いし、特に「喪失と回帰」の章に関しては未だスケッチ程度のものでしかない。今後考えを進めていければと思う。また、「フルーツ果汁100%」「瞳のなかの王国」「パペットマスター」のそれぞれに関しても、今回は時間的不足のために言及することが出来なかった。これも、今後の課題としたい。また、筆者の勉強不足能力不足時間不足のために、間違いが含まれている可能性も少なからずあるが、この稿自体が常に未完成のものであり、ネットワーク上でより良いものへと書き換えていくつもりでもあるので、インターネットへのアクセスが可能な方は、「岡野史佳エンサイクロペディア www.fumica.com」を随時チェックして欲しい。岡野ワールドは今も刻々と膨張しており、そこにはまだまだ、興味深い様々な断片が含まれている。今後も、その断片に触発されることで、何かを書きつづけていきたいと思っている。最後に、これだけの思考に耐えうる作品を生み出した岡野史佳先生に百万の感謝を捧げ、この稿を終えたいと思う。
■参考文献
「The Recursive Universe - ライフゲイムの宇宙」
ウィリアム・パウンドストーン著/有沢誠訳 日本評論社(1990)
「偶然と必然〜現代生物学の思想的な問いかけ〜」
ジャック・モノー著/渡辺 格・村上光彦訳 みすず書房(1972)
「探究II」
柄谷行人著 講談社学術文庫(1994)
「現代日本の感覚と思想」
見田宗介著 講談社学術文庫(1995)
「時間の比較社会学」
真木悠介著 岩波書店(1981)
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