蒼き光たち

Words by 森川蒼一

 頬に当たる風の冷たさに冬が近づいていることがわかる。その風はどこから吹いてくるのかという疑問。そんな疑問を持つときが、人にとっての季節の変わり目を感じるときなのだろう。今、彼女もそんな思いにかられていた。
 倉本深青。それが彼女の名前である。学校から帰り道、電車から降りて駅を出た瞬間、木枯らしが吹いたのだ。体の震えを感じると同時に「もう少し暖まっていたかったな」と彼女は思う。しかし、今日は待ちに待っていたイベントがあるのだ。そう思いながら、深青は足取りを速めた。
 12月。忙しさを実際に感じることが出来る季節である。子供の時には冬休みやお年玉を楽しみに毎日を過ごせるが、年を取ってくるに従って、年末という単語の意味をだんだんと味わうようになってくる。彼女もまた同様であった。しかし、今日この日は久々の時間を過ごせる予定なのだ。
「一矢くん、もう来てるかな………」
 駅前の商店街の通りを歩きながら、深青は小さい声でつぶやいた。高校を卒業してから、彼女は大学に進学し、一矢は水族館に就職して、二人とも忙しい毎日を送っていた。どうしても時間が合わずに、なかなか二人で逢えないことが多かった。
 しかし、二人はある約束を交わしていた。それは、毎月一回は二人っきりで逢うこと。つまり、今日は一ヶ月ぶりのデートなのである。そこには喜びも不安も存在していた。うまく話せるかな、笑顔が見られるかな。いつも同じ心配を一ヶ月ごとにしなければならない。つきあってから何ヶ月経つのかなと、彼女は少し自分に問いかけてみた。
 そんな想いを胸にしながら、彼女は通りを抜ける。すると、銀杏並木が並ぶ歩道に繋がる。その道を真っ直ぐ歩いていき、いつもの待ち合わせ場所である公園へ向かう。毎月のお決まりのコースだけに目を閉じてでも行ける自信がある。そう、いつもこうやって歩いていくと彼がそこにいるのだ。
「一矢くん!」
 やはりいた。彼はいつもの白いベンチに座っていた。深青の声に気づくと、すぐに声が聞こえた方向に彼女の姿を探した。そして、自分の目で彼女の存在を確かめると、満面の笑顔で深青を見つめた。
 少しでも彼を知っている人がいるならば、その笑顔が特別な人にしか見せないものであることを知っている。そして、深青もまたその中の一人だった。彼女はその笑顔を見ることで先ほどの不安を消し去っていた。
 深青はベンチに駆け寄っていくと一矢に言った。
「ごめん。待った?」
「いや、今来たところだよ」
 包容力のある声が優しく彼女を包んだ。水族館に勤めだしてから彼は大人っぽくなったと深青は思う。実際に社会に出た経験がそうさせるのだろう。
「今日はどこへ行こうか?」
 深青が彼に選択権を与えると一矢は言った。
「寒いから、とりあえず店に入ろう」
「うん」
 深青が頷くのを確認すると、一矢は馴染みの喫茶店に向かって歩き出した。それを追いかけるように彼女も歩き始めた。

 二人は公園を出ると、先ほど深青が歩いた通りを逆に進んでいった。そして、しばらくするとベージュ色の見慣れた看板を下げた喫茶店に着いた。
 カラーンコローン。
 ドアを開けると気持ちいい音が店内に響く。聞き慣れた音色だが、飽きることはなかった。何回もこの店に来ていることがそれを示していた。
「ご注文は?」
 二人が空いていた席に座ると、すぐに従業員がオーダーを取りに来た。なかなかの素早い動きに深青は感心した。こんなちょっとしたところで繁盛するかどうかが決まってくることを知って、彼女は少し嬉しくなった。
「えーと、私はアメリカン」
「じゃ、俺も」
 注文を取り終えると、従業員はそそくさとカウンターのなかへと入っていった。二人の間の空気がしんと静まり返る。それを防ごうと深青が言葉を探し始めたとき、一矢がふいに口を開いた。
「ごめん………」
 一瞬何を言っているのか深青には理解できなかった。別に謝られるようなことはしていないし、強制もしていない。
「えっ?」
 深青は素直に疑問を口にした。
「ごめん………。クリスマスイブ、逢えなくなった」
 言いにくそうに、しかしとてもはっきりとした口調で一矢は言った。昔からそうなのだと深青は知っていたのだけれど、今はそれが妙に気になった。なかなか逢えないから、せめてイブは一緒にいようと二人で決めたのに。
「何で? 前からそう決めてたじゃない」
 深青の口調には明らかに怒りが含まれていた。それは目の前の一矢に痛いほどに突き刺さった。しかし、彼は冷静に言葉を返す。
「仕事なんだ。クリスマスショーが水族館で企画されて俺がそのメインに抜擢されたんだ。雪乃さんがやるはずだったんだけど、俺がやったほうが将来のためになるって」  それを聞いて、深青は彼と一緒に喜びたかった。しかし、以前からの約束を考えるとどうしてもそういう気持ちは生まれてこない。
「仕事って………。雪乃さんがやるはずだったんでしょ。一矢くん断れば良かったじゃない」
 その言葉は一矢の感情に火を付けた。彼の右腕が空中に移動し、テーブルに叩き付けられる。その部分がドンと悲鳴を上げた。
「なんだよ。俺がやっちゃ悪いって言うのかよ」
「そういうことじゃないわよ。私が言いたいのはよりにもよってイブに仕事を引き受けるってこと」
 二人の感情がだんだんと高まっていく。喫茶店と言う空間の中で二人の回りの空気だけが違うものに変化していった。
「仕方ないだろ、水族館の方針なんだから」
 一矢が言い放つ。
「方針って言ってもね、イブ楽しみにしてたんだからね」
 深青が言い返す。
 そうした言葉の応酬のあと、最後に深青が決定的な言葉を発した。
「わかったわ。一矢くんは私よりも仕事のほうが大事なのよね」
「なんだよそれ。もう、勝手にしろよ」
 一瞬の間。
「ええ、わかったわ」
 そう言うと、深青はテーブルの脇にあった伝票を持ち、席を立つ。そして、すたすたとレジの前まで行き、静かに代金を払った。その間、一矢は一言も喋らずにつんと横を向いていた。

 深青は喫茶店のドアを空けた。その開閉音が彼女の耳に響いてきた。先ほどまでの楽しげな響きから一転して、寂しげに閉じていく花びらの音のように聞こえた。
 外は夜のイルミネーションで艶やかに彩られていた。けれども、深青の目には涙があふれ出ていた。止めようと思ってもなかなか止まらない。まるで死ぬほど辛いカレーを食べたあの時の夜みたいに。しばらくしてから深青は涙を止めようとするのをやめた。
 そして、深青は走り出した。通りには人が溢れていたが、涙のせいで視界がぼやけてきて良く周りが見えなかった。少しでもあの場所から離れたい、その思いが彼女を支配していた。
 10メートルぐらい走ったその時。
「痛っ!!」
 衝撃が深青を襲い、勢い良く地面に倒れた。一瞬彼女には何が起きたのか分からなかった。しかし、時が過ぎて落ち着いてくると誰かにぶつかってしまったと気づく。ほとんど目をつぶっていたに等しい状態で全力疾走していたから不思議ではなかった。
「ごめんなさい!」
 深青は立ち上がると間髪入れずにぶつかってしまった相手に謝った。
「全く、ちゃんと前見て歩けよなぁ………」
 倒れていた相手は背中をさすりながら立ち上がった。そして、ぶつかってきたのはいったい誰なんだと言うように深青の顔を確かめようとした。
 すると。
「深青ちゃん!」
 聞き覚えのある声と共に深青の手に暖かい手が重なる。こんなことをする人はあの人しかいない、そう思った彼女は該当する男の名を呼んだ。
「坂下くん………」
 知っている人だったという安心感。それは深青にとって非常に嬉しいものだった。迷惑をかけてしまったのは自分の不注意からだったのだが、これで少しは救われるからだ。
 ほっとした瞬間に深青の心の中には先ほどの感情がまた広がっていった。あっと言う間に、それは彼女の心を覆い尽くし、目からは涙がこぼれ落ちた。
「ど、どうしたの?!」
「大丈夫、何でもないの………」
 そう言いながら涙の量は減らないばかりか逆に増える一方だった。泣いているところを見られないようにするためにコートの袖で顔を覆い隠したけれど、あまり効果はなかった。もう止まらないな、と深青は思った。
「何でもないの、って言っても………深青ちゃん思いっきり泣いてるじゃないか」
 そう言うと彼は深青をじっと見つめた。目を覆っていたので実際に見つめられていることは分からなかったけれど、彼女には視線を感じ取ることができた。
「…………………」
 泣いているときには何もかもがその原因になってしまうことがある。彼女にもそれを容易に当てはめることが出来た。彼の視線は涙の量を確実に増やしていたのだ。すると、彼は急いで自分のコートのポケットに手を入れた。そして、白く綺麗に折り畳まれたものを取り出した。
「はい、ハンカチ」
 差し伸べられた好意を深青はありがたく受け取った。そして、もう何時間も泣きはらしたような目にゆっくりとハンカチを当てた。
「ありがとう………」
 涙で真っ赤になってしまった深青の目を見ていると、彼にはどうにも我慢ができなくなった。
 ―――俺は彼女を泣かすようなことはしない。
 そして、一つ小さく深呼吸すると、深青の小さい肩を両手で強くつかんだ。いきなりの行動にびっくりした深青はその場に立ちすくむ。金縛りにでもあったみたいに体を静止させながらも、かろうじて小さな声を出した。
「痛いよ、坂下くん……」
「あっ、ごめん」
 彼は力を緩めて、深青の肩に優しく手を置き直した。そして、真っ直ぐに彼女の目を見つめながら言った。
「イブ、デートしてくれませんか?」

 街中のイルミネーションがきらきらと楽しそうに輝いている。まるで世界に存在する人達全ての気持ちをそのまま表しているようだ。クリスマスイブはそんな感情を自然と産み出してくれる日である。通りを行き交う恋人達や家族連れの笑顔に頻繁に出逢えるからだ。
 しかし、そんな輝かしい雰囲気のなかに一組だけバランスの取れない二人がいた。
「ねぇどこに行こうか?」
 男は横を歩いている彼女に言った。見るからに楽しそうである。今日のクリスマスイブを存分に楽しもうといった感じだ。
 そんな彼に反して、
「うーん………」
 と彼女は言葉を濁す。楽しそうではあるが、心からでは無いことがありありと分かった。そんな彼女を出来るだけ見ないようにして彼は声を出した。
「でも………、本当に良かった」
「え、何が?」
「深青ちゃんとこうやってデートできて」
 その一言とともに、彼はゆっくりと拳を握りしめるようにして喜びをかみしめる。まるで、長年探し求めていた宝物を見つけたときのように。
「坂下くん………」
 深青はそんな彼を見て心の奥に少しだけ灯がともった。こんなに喜んでくれるなら今日一緒にいて良かったと思う。しかし、それでも後ろめたさは消えなかった。怒りにまかせてデートの誘いにOKしたのも事実なのだから。

 坂下隆二は深青が最初に友達になった男性である。彼とは大学の入学式で知り合った。偶然入学式の席が隣同士だったのである。「倉本」と「坂下」。なかなかあり得ない話ではあるけれど隣だったのは事実であり、名字を聞いたときには二人とも驚いたものだった。それがきっかけで話をするようになり、一緒に授業を聞いたり昼食を取り合うようになった。もちろんその他にも行動を共にする人はいたけれど。
 坂下への深青の第一印象は「小林さんに似ている」だった。話し方、話題の変え方、女の子へのフォロー、どれをとっても彼に似ていた。
 入学して1ヶ月経ち大学にも慣れつつあった頃、深青は坂下に告白された。彼女は正直に「つきあってる人がいるの」と言ったのだが、「待つよ」と言われて戸惑ってしまった。
 それからも仲良く友達として付き合っている。まるでちょっと前の小林さんと雪乃さんみたいだなと深青は思った。

「………深青ちゃん?」
 耳からの音に深青の思考は中断した。ときどき自分の世界に入り込んでしまう癖はまだ抜けてはいなかった。
「どうしたの?ぼーっとして」
「ううん、何でもないの」
 深青は少しオーバーに思えるほど首を横に振った。
「………………」
 二人の間に空白の時間が流れた。この雰囲気を少しでも打ち破りたい、そんな思いで坂下は言った。
「………ゲーセン行こうか」
「えっ?」
 坂下の突然の提案に深青は驚いた。
「深青ちゃん、なんか元気ないみたいだからさ。そんなときにはゲーセンが一番。俺が保証するよ」
「うーん………」
 深青はどうしようか悩んでいた。それは彼女がなかなか動こうとしないところを見ても明らかだった。そんな深青を見て、坂下はさっと彼女の手を握った。
「ちょ、ちょっと坂下くん?!」
「大丈夫、大丈夫」
 と言いながら、坂下は深青の手を引っ張っていく。けれど、強引と言えるほどではなく、あくまで自分の方へ導いていくという感じだった。それを自然に理解した深青は素直に彼の手に従った。

 歩き始めてから5分ぐらい経っただろうか。深青の目に明るく輝くネオンサインが見えた。あそこがゲームセンターなのだろうと彼女は思った。坂下の歩く速度も心なしか早まったように思えた。
 そして、二人はゲームセンターの前に立った。すると、待っていたかのように静かに自動ドアが開いた。店内に入ると聞き慣れた曲が流れていた。有線放送なんだろうな、と深青は思った。 
「まず今日の記念にプリクラ撮ろうよ」
 そう言うと、さっそく坂下は歩き出した。手を繋いだままだったので、当然深青もその後をついていく格好になる。
「ちょ、ちょっと待ってよ、坂下くん」
 しかし、彼は深青の言葉には耳を貸そうともせず、奥にどんどんと進んでいく。引っ張られていく彼女にはたまったものではない。自分に選択権は無いのだから。結局、店内を突っ切るような形で二人は筐体がある場所へやってきた。その間、彼は少しも迷いはしなかった。このゲームセンターには何回も来ているらしく、どんなところに何のゲームがあるのか良く分かっているらしい。
「さぁ、撮ろうか」
 坂下は深青を隣に立たせると早速コインを投入した。次々に画面が変わっていき、最後にいろいろなフレームが並んでいる画面になった。
「深青ちゃん、どれにしようか?」
「うーん………」
 深青が悩んでいると、坂下は答えを導くような思いで彼女に言った。
「じゃあ、これにしようか」
 坂下はボタンを素早く操作し、自分の意図しているフレームへとカーソルを移動させた。それを見て、深青は驚いた。

 イルカ………。

 そう思った瞬間、深青の脳裏に一矢とのデートの場面が鮮やかに蘇った。初めてのデートのときに撮ったプリクラ。イルカが珍しくフレームに使われていて、二人で喜んだことを思い出した。自分の中で一矢の笑顔が大きくなっていくのが分かった。積み重ねた二人の想い出と共にそれは蒼き光を放ってきらめいていた。

 ―――行かなくちゃ、水族館に。

「………深青ちゃん、深青ちゃん」
 自分の耳に入り込んでくる声を聞いて、深青はハッと我に返った。
「これでいいかな?」
「えっ………、あっ………」
 深青は坂下に何も言えなくなってしまっていた。彼女は今、自分がここにいるべきでないこと、そしてすぐに彼に会いに行かなければならないことに気づいたからだった。
「ど、どうしたの?」
 坂下は深青の不自然な態度を不思議に思った。

「………………」  深青は無言のまま顔を下に向けていた。自分にとって一番大切なのは誰かということをはっきりと認識し、心の奥底から勇気を取り出していたからだった。
「ごめんなさい!」
 深青ははっきりと坂下の顔を見ながら言った。彼女の顔は決意に満ちていた。もう誰にも止めることが出来ない、そんな顔だった。
「本当にごめんなさい!」
 そう言いながら、深青は出口に向かって走り出していた。走り去っていく彼女を呆然と見送りながら、坂下は一言小さくつぶやいた。
「あーあ、『彼』には勝てなかったか………」

 ゲームセンターを出てから深青は走った。水族館に行くには足では時間がかかる。そう思った彼女は大通りに出ると急いで右手を挙げた。
 道路は車の流れが激しかった。まるでクラクションの音が大気中でけんかしているみたいだった。しかし、運良くすぐに彼女の目の前に一台のタクシーが停車した。そして、後ろのドアが自動的に開き、彼女は素早く後部座席に乗り込んだ。すると、すぐに運転手が後ろを振り向きながら問いかけてきた。
「お客さん、どちらまで?」
「水族館までお願いします。すいません、出来るだけ急いでください」
「大丈夫。今の時間なら軽く5分ぐらいで着きますよ」
 運転者は笑顔でそう言うと、かなりのスピードで車を走らせ始めた。深青は少し不安に思ったが、時が経つにつれて彼の運転技術が高いことが分かったので冷静になり窓の外を見つめた。
 冬色の景色が深青の心を落ち着かせていく。まず謝ること、そのことから始めなければならないな、と彼女は思った。あのときのけんかは確実に自分の方が悪いんだから………。
 ふとそんなことを思っているうちに、運転手はあっと言う間に水族館まで車を走らせていた。
「はい、お客さん。着きましたよ」
「どうもありがとうございました」
 深青はお金を運転手に渡すと急いでタクシーから降りた。そして、入り口まで走っていき、受付で入場料金を支払った。回転ドアが彼女を歓迎するように回って、深青は建物の中へと入った。
 こんな時間だからだろうか、さすがに人影もまばらのように思えた。しかし、その中に彼女は見知った顔を見つけた。雪乃だった。
「あれ、深青ちゃん。どうしたの、こんな時間に?」
「一矢くん、どこにいるか分かる?」
 雪乃は左手を裏返すと腕時計を見た。
「うーん、今の時間ならショーを担当してるわね。でも、もう始まっちゃったから中には入れないわ。今度ので最後だから、控え室で待ってて」
 その言葉を聞いて深青に笑顔が戻った。良かった、間に合ったんだ。
「それにしても………」
 雪乃は深青の顔を覗き込みながら言った。
「深青ちゃんと一矢くん、けんかしたんでしょ?」
「………………」
 あまりにも的確な指摘に深青は何も言えなくなった。それは彼女にとってはっきりとした肯定を表していた。
「やっぱりね………。一矢くん、この頃元気なかったもの。私が何か言ってもほとんど上の空だったし」
 雪乃は遠くを見ながら言った。そのときの彼女はまるで弟を思う姉のような目をしていた。彼の成長を見届けてきた証のように。
 そして、少し何かを考えた後、深青の目を見つめ直してこう言った。
「でも、ここに来たってことは………仲直りしに来たのよね?」
「うん」
 固い決意。
「じゃあ控え室で待ってて。一矢くん、終わったら行かせるから」
「うん、分かった。ありがとう、雪乃さん」
 そう言うと深青は控え室に向かって走っていった。ありのままの自分の気持ちを正直に伝えるために。

 観覧席ではイルカ達の姿を見に来ていた観客で一杯だった。彼らが何か動きを見せると、途端に人々の喜びの声が沸き上がった。それを聞く度にこの仕事を選んで良かったと、一矢は思う。確かに昔はイルカ達がかわいそうだと思ったこともあった。でも、こうやって確実に彼らは人間達を元気づけてくれている。
「これでクリスマスイルカショーは終わりでーす。みなさーん、どうもありがとうございましたー。また見に来てくださいねー」
 終了のアナウンスと共に約20分間のショーは終わりを迎えた。トレーナーである一矢が合図を送ると、イルカ達は首を振りながらプールの端を沿うように泳いで、それから水中へと潜っていった。彼らなりの「バイバイ」だった。
 そんなイルカ達をいつまでも見守りながら、会場は割れんばかりの拍手の音に包まれた。
 その音を胸に刻みこみ、一矢はイルカ達の後を追うように水中へと潜っていった。そして、彼らに小さく手を振ると、一つだけ違う色をした出口である円形の壁まで泳いでいった。次に、彼がその壁に付いている取っ手を回転させると、人一人が通れるくらいの空洞が出来た。その穴を器用にくぐっていき、彼は地上へと戻った。
 ショーが終わり水族館内へ戻ると、一矢は妙な空虚感に襲われた。あのときからいつもこうだ。舞台が終わったときの俳優もこんな気持ちになるのかなと、一矢は思った。  とりあえず着替えよう。そう思って更衣室へ向かって歩き出したとき、一矢は自分を見つめている視線に気づいた。誰だろうか。視線に目を合わせたとき、その正体が雪乃だったことを知った。
「お疲れさま、一矢くん」
「雪乃さん、どうしたの?」
 一矢は不思議そうに言った。雪乃がこんな風に待っていること、それが珍しいらしい。

「何よ、その言い方は。言っときますけどね、私は別にさぼっているわけじゃありませんからね」
 その言い方がおかしかったのか、一矢はくすっと笑った。
「もうバカにして。いいのかな、そんな態度で。せっかく良い知らせを持ってきてあげたのにな」
 雪乃はさっきのお返しとばかりにくすっと笑う。
「えっ、何なの?」
「うーん、どうしようかなぁ」
「何だよ、教えてくれよ」
 一体なんなんだろうと思いつつ、一矢は雪乃に一生懸命懇願した。こういうときの彼女には全力で当たらないとダメだということを、一矢は今までの経験から良く分かっていた。
「そんな顔されたら仕方が無いわね。教えてあげる。一矢くんが今一番逢いたい人が控え室にいるわよ」
「逢いたい人って………まさか!」
「分かったようね」
「早く行かなきゃ!」
 一矢は、今この瞬間流れている時間も惜しいとでも言うように急いで目的地に向かおうとした。そんな彼を雪乃は慌てて止めた。
「一矢くん、ウエットスーツで行くつもりなの?!」
 その言葉を聞いて、一矢はパッと足を止めた。良く見ると、先ほどプールから出てきたそのままの状態だった。ウエットスーツからは水滴がポタポタと垂れていた。
「あっ………」
「早く着替えて。深青ちゃん、待ってるわよ」
「分かった。雪乃さん、ありがとう」
 そう言うと、一矢は急いで更衣室へと走っていった。そんな彼の後ろ姿を雪乃は優しく見つめていた。

 ………落ち着け、落ち着くんだ。
 そう思いながら、一矢は控え室のドアノブに手をかけた。心臓の鼓動が彼自身にも聞こえるくらいに大きくなっていた。まるで自分のものじゃないみたいだ、と彼は思った。  そして、ノブをゆっくりと回す。すると、そこからカチャリと音がした。限りなく小さい音ではあったが、一矢には限りなく大きな音に聞こえた。レース開始を表すファンファーレのように。
 続いて、おそるおそるドアを開けようとするが、まるで自分の腕ではないように動かなかった。どうしたんだ。動け。一矢は右腕に力を込めた。そうすると魔法が解けたかのように、ようやくドアが動き出した。
 カチャッ。
 今、一矢の目の前の隔たりは無くなった。そして、彼は静かにその先にあるものを見た。来客用のテーブルが1つあり、その両側にセットとしてイスが4つ用意してある。しかし、これではいつもの控え室と変わらなかった。
 ただ唯一違っていたことは。
 そこに深青がいたことだった。彼女は右側のイスにちょこんと座っていた。しかし、背もたれには体を預けてはいなかった。緊張しているのだろう。そして、静かに下を向いていた。
 誰かがドアを開けたことが分かると、深青はゆっくりと顔をこちらに向けた。彼女には分かっていた。「誰か」ではなく「彼」だということが。そのことを確かめようとするように、彼女は彼の目を見つめた。
 その瞬間。
 深青はいきなりイスから立ち上がると、一矢に向かって駆け出していた。そして、彼に飛びつくと、その身体をしっかりと抱きしめた。
「ごめんなさい………」
 深青は一矢の胸の中で小さく呟いた。声は一矢の白いTシャツに吸い込まれるかと思えるほど小さかった。
 すると、深青は顔を上げ、彼の目をしっかりと見つめながら大きく言った。
「ごめんなさい!」
 言い終わると同時に、涙が一滴こぼれた。
「全く………」
 一矢は自分に言い聞かせるかのように言った。
「俺から言おうと思ってたのに。先に言うなよな」
「えっ?」
「………ごめん」
 それは一矢にとって特別な一言だった。
「あのとき、ついカッとなってさ。売り言葉に買い言葉ってやつ。よく考えてみると、確かにイブの日に仕事入れるのはダメだよな。深青が怒るのも当然だよ」「ううん、私がいけなかったのよ。一矢くんが困るようなこと言ったから。だって、お仕事なのに」
「違うよ、俺が………」
「そんなことない、私が………」
 互いに謝り合う二人の言葉が重なり合った。すると、自然に二人は笑い出した。そして、今までの分を取り戻すかのように笑い合った。それから、自然に笑い声は小さくなり、深青がかみしめるように言った。
「良かった、仲直りできて………」
 深青はほっと肩を撫で下ろした。不安が一挙に外へと飛び出していく。そんな彼女を見て、一矢は言った。
「あ、そうだ」
 そう言って一矢はジーパンの後ろのポケットから何かを取り出した。そして、何のことだか分からずにきょとんとしている深青の目の前にそれをすっと差し出した。
「何?」
 一体どういうことなんだろう。深青にはそれが一枚の紙切れに見えた。すると、一矢はその疑問に対しての答えを出した。
「オーストラリア行きのチケット」
「え?」
「ほら、前約束しただろ。野生のイルカ見に行こうって。それで、調べたらオーストラリアが一番いいって雑誌に書いてあったからさ」
 驚きを隠せ無いながらも、深青は最高の笑顔を見せた。
「うん、行く!」
「深青にいつ渡そうかって悩んでたんだ。今日来てくれて本当に良かったよ」
 そして、一矢はチケットを深青に手渡した。それを受け取ると、彼女は両手でゆっくりと自分の胸に持っていき、宝物を扱うようにそのぬくもりを確かめた。
「嬉しい………」
 そんな彼女の姿を見て、一矢の心にある感情が沸き上がった。
「深青………」
 いとおしげに名前を呼びながら、一矢は深青の右耳を覆うようにして、顔にそっと触れた。
「あっ………」
 一矢が何を求めているのか、一瞬にして理解した深青はゆっくりと目を閉じる。そして、顔を心持ち上に向け、最後に少し背伸びをした。
「………………」
 近づいてくる一矢の体温を、深青は目を閉じながらも確かに感じとることが出来た。ゆっくりとゆっくりと温もりが近づいてくる。そして、彼女の唇に柔らかく温かな何かが触れた。
 その瞬間、深青は何物にも代え難い幸福感に包まれていた………。

「次のフライトは10時25分シドニー行きとなっております。ご搭乗になるお客様は15番ゲートまでお越しください………」
 管制塔のアナウンスが空港内に響きわたった。人々がひっきりなしにロビーを行き交う中、エントランスを抜けて全速力で駆け込んでくる二人がいた。深青と一矢だった。
「はぁはぁ………」
 二人は何とか体を落ち着かせようとした。今のままでは何も喋れないほど、肩で息をしていたからだった。
 やっとのことで、体を普通の状態に戻した一矢はホッとした様子で言った。
「なんとか間に合ったな」
「全く、一矢くんが悪いんだからね。寝坊なんかするから」
「ごめん!」
 一矢は悪戯っぽい子供のように微笑む。
「あっちに着いたら、いろいろとご馳走するからさ」
 すると、深青は仕方がないなと言う顔をして、一矢に言った。
「約束だからね」
 一矢は小さく頷くと、深青の肩に手を回した。
「行こうか」
「うん」
 深青はふと上を向いた。すると、彼女の目に眩しい太陽の光がきらりと入った。なぜだろうと思い、良く見ると、彼女は側面が全面ガラス張りになっていることに気づいた。
「わぁ、綺麗な空!」
 深青はガラス窓から見える大きく広がる青空を見ながら言った。雲一つ存在しない正真正銘の真っ青な空だった。
「………この空に繋がってるんだよね、オーストラリアって」
「ああ、そうさ」
「楽しみだなぁ………」
 深青は何時間後かに自分が歩いている場所を頭の中に想像していた。それは彼女の顔を見れば分かった。本当に嬉しそうな表情を浮かべていたから。
 そして、一矢はその想像に対して出来るだけ邪魔をしないように、ゆっくりと深青に言った。
「行こうか、深青」
「………うん」
 二人はゲートへと歩き始めた。
 お互いの瞳のなかに、映り合う蒼き光を抱きしめながら。

Fin.

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