イリスの涙
Words : 押野真人
★第一章 眠らない都
その都に住む人々にとって、夜とは宴の異称である。夜毎に商人たちがその富を惜しみなく投じて美食に宝石細工、歌姫、舞姫を競い合う。彼らの富を支えるものは東の草原を越えて運ばれてくる香料、絹であり、西の多島海を越えてもたらされる葡萄酒や硝子細工、そして大量の金貨であった。そう、東西の貿易をつなぐ一大交易拠点、その名は西の都エルバシア。
商人にとっての武器はその才覚と知識であった。だからこそ、エルバシアには数多くの学問所があり、そこで学ぶ者は世界でもっとも洗練された知識を手にする事が可能であった。
ハイダル・クーザーもまた、エルバシアにて学ぶ一学徒である。ただし、彼の興味は多くの商人の子弟がそうであるように言語や数学の上には無かった。ハイダルの興味を引き付けた学問は当時異端の烙印を押されかけていたもの。それは「錬金術」と呼ばれる学問であった。
エルバシアにあっても錬金術を始めとした魔術を教える学問所は科学におされ減少傾向にあった。よほど昔気質な教師の私塾で学ぶか、極めて大きな学問所の中で肩身を狭くしつつ学ぶしかない。ハイダルの場合は後者であった。エルバシアで代々宝石を商う父親が一人息子であるハイダルの利発さに期待して彼をエルバシア最大の学問所に入学させたのである。
息子が魔術を学ぶ事について父親は良い気分はしなかったが、ハイダルが真摯に学問に打ち込む姿を見せられては、何も言えなかった。ハイダル自身が異国の言葉や数字を操る技についても父親の期待通りに習得していった事もあり、よき父親を決め込んだのである。
親の前では理想的な学徒を演じつつも、実際ハイダルという青年はいろいろな意味での問題児であった。そもそもが魔術を専攻といってはばからない辺りが不穏である。彼が何を求めて魔術を習得するつもりであるかはどの教師も知らない事であったが、彼の家庭を考えるに、少なくとも単純に金を得る術が目的ではないように思われた。
そして、六歳のときより学んで十年、ハイダルは今年学問所を卒業する事となる。
眼に鮮やかな白のバンダナをした友人が片手を上げて歩み寄って来る姿を視界の端にとらえ、タリク・リッツアは目を細めた。エルバシアにあってバンダナはさほど風変わりな習慣ではないが、彼は眠るときですらバンダナを解かない。汚れた様子も無い事から、恐らく洗濯しているのだろうとは思うが、彼のバンダナ無しの素顔をタリクはこの十年で見た事がなかった。
「こんにちは、ハイダル。今日も機嫌はよさそうですね」
そう言って微笑むタリクを見て、ハイダルは上げていた手を降ろす。そしてばつが悪そうに暮れなずむエルバシアの町並みに眼を泳がせた。
「べ、別に機嫌が良いわけじゃないさ。ただ、今晩はご馳走だっていうからさ。せっかくだからおまえも一緒にどうかと思って、さ。どうだ,久しぶりに家の飯を食いに来ないか?」
「ああ、お父さんが帰ってきたのかい?」
ハイダルがそっぽを向いたまま小さく頷いて見せる。
「まあ、そういう事だ。今ごろ帰っている頃だし、まあ、無事でないよりって事でな」
彼の父親が宝石類の買い付けに東の草原の道の向こうへと向かったのはもう数ヶ月は前の話だ。別段経営不振というわけでもないが、何年かに一度仕入先を直接確かめる必要があると、これまでにも何度か長期の旅行に出かけている事をタリクは知っていた。
その家庭は円満を絵に描いたようで、優しい両親がいて何人かのメイドがくるくると働く姿は、タリクの知る故郷の家庭とは一風変わったものではあったが、それでも温かい家庭を思い出すには十分な雰囲気があり、これまでにも何度か訪問し、安らかな時間を過ごしていた。その情景を思い出し、タリクは満面に笑みを浮かべた。
「もちろん、喜んで伺わせてもらうよ」
「おう、じゃあ早速行こうぜ。腹一杯うまいもん食わせてやるからよ」
勢いのついた平手が背中を叩き、転びそうになってようやく踏みとどまるタリクをそのまま押すようにしてハイダルが駆け出した。今にも沈もうとする夕日に、通りの店はランプを灯しはじめている。
エルバシアの夜が訪れようとしていた。
「ようこそ、タリク君。君とも久方ぶりだね、かわりはなかったかい?」
ハイダルの父親、イブゥンは今年でたしか四十になるはずだが、さすがに長旅の疲れは若干残ってはいるものの、特に健康を害した様子もなく、元気なものである。むしろ日焼けした分より若々しく見えた。
「はい、おじさんも元気そうで安心しました。ハイダルもこれで元気になるでしょう」
タリクの言葉に、にこやかに頷くと、イブゥンは楽しげに笑う。
そんなタリクの肩を荒々しくつかむと、ハイダルが不機嫌そうな表情を隠しもせずにイブゥンの前からタリクを引きずるように力を込める。
「全く、、何言ってやがる。別におれは親父が帰ってきたからといってこれ以上元気にはならないぞ。それよりほら、せっかくおふくろたちが腕によりをかけて作った料理なんだからどんどん食って、がばがば呑んでくれよ」
そう言いつつハイダルが手にした銀の杯をタリクに押し付ける。ほとんど一杯に注がれた真紅の葡萄酒をこぼさないようにと慌てて受け取り、タリクはそのまま波打つ水面に口を付け、今にもこぼれそうな酒をすすりこむ。葡萄酒だけにそれほど強い酒ではないが、急に飲み込んだために喉元でむせ返り、タリクは派手に咳込む。
「おいおい、こぼれるじゃねえか、気を付けろよ、タリク?」
タリクの手元でゆれる杯を奪い返しつつ、ハイダルが悪戯っぽく笑う。
「酷いですよハイダル、私が酒に弱い事は知っているでしょうに」
「ああ、ハイダル。友人にそのような振る舞いは感心しないぞ」
涙眼で抗議するタリクを見て、ハイダルの父親はそう言って彼を睨む。恐縮したように頭を下げたハイダルだったが、小さく謝罪の言葉を唱えると、手にした杯を一気に干し、タリクを引きずるようにして宴の中に紛れていく。
「わ、ハイダル、まだ挨拶が済んでいません」
「いいんだよ、どうせそんな堅苦しい事親父だってやりたがっちゃいねえさ」
そう怒鳴り合う二人の声が隊商の仲間たちが酒を酌み交わす宴の中から聞こえてきて、父親は苦々しく微笑んだ。
「……困った奴だ」
それまで黙ってやり取りを聞いていた恰幅の良い母親が、そう呟いた父の手元に冷たいコーヒーを満たした杯を渡す。
「本当、タリクさんもよく付き合ってくれていますよ」
そういった妻と顔を見合わせて、父親は大笑いした。
「しかし、旅行中のつもる話などもしたかったのだが、まあおいおいだな」
「……あの土産物のお話?」
少し声を潜めた妻に、イブゥンは重々しく頷いて見せる。
「ああ、たまには毛色の変わった土産物もよかろう?」
そう言って、妻の耳元に口を寄せる。
「……それに実際のところ、結構奮発したのだぞ」
「あの子が喜ぶかしら?」
その後、タリクはそのままハイダルによって大広間を引き回されていた。一応エルバシアでも中流に属する商家の当主の帰還だけに、そこに並べられた料理にはタリクがめったに口にできないようなものもふんだんに盛り込まれている。
「しかし、今日の料理は豪華だな、親父の奴よっぽど稼いできたのか?」
並べられた皿の中から大きな海老をつかみ出し、その殻に齧り付きながらハイダルは首をかしげた。東方の珍味をふんだんに盛り込んだスープを啜りながら、タリクもまた、今日の宴がこれまでの定期的な隊商の打ち上げにしては大規模である事も感じていた。とはいえ隊商に出る事自体が数年ぶりであるし、さほど気にしてもいなかったのだが。
「うん、この広間にこんなに人が集まるのを見るのは初めてかな?」
そう言ってハイダルを見やると、彼もまた何かを考え込むかのように腕を組んでいる。
「何か、厭な予感がする」
ハイダルがぼそりとそう呟いたときだった。
「本日は私の帰国に際しかくも大勢の方々に集まっていただいて、本当に嬉しく思います」
朗々たるバリトンが響き渡ると、場に静寂が訪れる。二人が慌てて視線を巡らせた先には、先ほどまで上座で挨拶を受けていた本日の主賓、イブゥン・クーザーが立ち上がっていた。
「この喜びを歌に換えて皆様にお返ししたいと……」
ハイダルが呆れて溜息を吐いて見せた。そうして自棄を起こしたかのように改めて海老を噛り始める。タリクが不思議そうに見つめているのに気付いて、シニカルに笑ってみせる。
「親父の癖だよ、酔っていい気分になるとすぐに歌いたがるのさ。あれが出て来るって事はいつもと変わらず元気って事だ。全く、疲れてるくせに、サービス精神だけは旺盛なこった」
「はあ、でも商人としては必要な資質でしょう?」
今一つ要領を得ないといった風に首をかしげる友人を見てハイダルが笑う。
「おまえ、おれが人に媚びを売るのが一番苦手なタイプの人間だってまだ分かってないのか?」
「でも……」
何か言いかけるタリクの声を打ち消すように、イブゥンの声が響き渡る。
「おおい、息子よ、そんなとこにいないで父さんと歌わんか、なあ?」
無言でハイダルは踵を返す。
「あれだ。全く付き合ってられるか、ってんだ」
本当に商人に向かない友人である事をタリクは再確認しつつ、器を手近な卓に乗せると、ハイダルの背中を追って宴の人込みの中をかき分けていった。
「おおい、息子よぉい」
背後ではすっかりいい気分の父親が何やら吠えている。
これもまた、明るい家庭の一形態ではあった。
夜半を過ぎても、宴の方はなお盛り上がりを見せていた。
「本当に、サービス精神の旺盛な事だ」
イブゥンが東方より持ち帰った商品の披露を行ったり、現地の珍しい話題などを場に提供したりしているのを眺めつつ、ハイダルは呟いた。既に酔いが回ったか、赤く染まった頬に冷たい蜂蜜水の杯を押し当て、壁によりかかるようにしている。
「大丈夫かい、結構呑んでいたみたいだけれど」
タリクが見たところ、隊商の人間と同程度に杯を重ね、彼らの現地の話題に適当に相槌を打ちながらハイダルはやたらと酒を流し込んでいるようであった。
「大丈夫だ、これくらいで酔ったりはしない」
言いつつも、足元がおぼつかないハイダルをあわてて脇から支えてやる。
「ああ、すまん。ちょっと外に出るとするか」
ふらふらと怪しげな足取りでハイダルは広間の窓から身を乗り出すと、外に歩み出る。
イブゥンの邸宅にはささやかながらも中庭が整えられており、石畳と、何本かの糸杉のコントラストが細い三日月の光に浮き上がっていた。
「ああ、いい天気だな」
のんきにそんな事を言いながら石畳の上に寝転がると、ハイダルは目を閉じる。
よったハイダルには逆らわない方が良い事を長い付き合いの中学習しているタリクも付き合ってその傍らに腰を下ろす、広間の方からは相変わらずイブゥンの声が聞こえて来る。よくとおる、大きな声である。
(…なみ…かぜ……にを…………いたら)
「全く、うるさい親父だ……ん?」
聞こえて来る音の全てを耳から締め出そうとしていたハイダルが身を起こす。
「どうしましたか?」
不審そうに問い掛けるタリクを無視して、ハイダルはよろけながら立ち上がる。
(な…のひ…かり……て…よ…むぎ…さ)
慌てて支えようとする手を振り払うかのように二、三歩歩くと友人の方を振り返る。
「聞こえないか、タリク?」
「……何がですか?」
「これは……歌、か?」
ハイダルの耳に滑り込んできたのは、限りなく幽かな、それは声。
今まで聞いたどの歌い手の声よりも澄んだ、透明な歌声が確かに聞こえた気がしてハイダルは歌い手の姿を求めて石畳の道を外れて歩く。
「ちょっと、はいだる、何処へ行くのですか?」
「おまえには聞こえないのか?どんな奴が歌っているのか気になるだろ?」
急に歩き出したハイダルを追うタリクの耳には、イブゥンの大声以外は聞こえなかった。
(みどりの…かにさ…めい………りの…たが)
「こっち、か?」
住み慣れた家の中庭がまるで見知らぬ商人の邸宅のようにも感じられ、まさか迷う事も無いだろうがと思いながらハイダルは月明りと耳に届く誰かの声をたよりに歩く。
既に酔いは醒めていた。完全に素面に戻った今のハイダルの意識を占めているのは、そのこれまで聴いた事のない歌声の主に対する興味だった。
声の感じから察するに、きっと美人であろうと見当はつけていた。
けれど。
「あ……」
植木の茂みが作り出す、幾分曲がりくねった細い散歩道が途切れる所。
急に景色が開けて、館の離れが視界に飛び込んで来る。
その離れの入り口、石段に腰掛けている、俯いた人影。
淡青色の月長石のような光に包まれたその人影は、ぼんやりと輝いている様にみえた。
「おまえは……?」
呟くようなハイダルの声に反応したかのように、その顔を上げる。
純金を梳いたような輝きを持つ長い髪と、乳白色の大理石のような肌。ハイダルがその声から抱いていた印象をはるかに凌駕するその姿。
月の光が具現化したような少女。そう、先ほどから聞こえてきたあの歌声はその唇が紡いだものに違いない、それを確信できるほどの完成された美。
「おまえ……?」
ただし、その瞼は閉ざされている。
「眼が……」
思わずその瞼に手を伸ばしかけてハイダルは気付く。盲目ではなく、如何なる理由によるものかこの少女には眼球が存在していない事に。
(だれ……?)
ハイダルの方を伺うように顔を向けた少女の唇が動く事はなかったが、その言葉を確かにハイダル自身の耳は捉えていた。
「おれは、ハイダル・クーザー。この家の息子で、錬金術師だ」
その光景を見守るタリクには、やはり少女の声は聞こえなかった。
それが、彼らが生まれて初めて生きたイリスを知った瞬間だった。
★第二章 イリス
ハイダルが震える足取りで少女に近づくのをタリクは息を詰めて見守っていた。
何の変哲も無い、白い木綿のローブの下からでも隠し切れない光が少女の輪郭を縁取り、夜の中にその明かりを投げかけている。それはまるで御伽噺の妖精のような様で、月の光との対比は辺りに幻想的な雰囲気を振りまいている。
それに誘われるようにハイダルは少女の正面に立ってその姿を見詰める。その気配を察したのか、少女はハイダルに向けて微笑んで見せた。
確かに少女は美しかったが、彼女の瞳は固く閉じられており、また彼女の言葉もタリクには聞こえなかった。恐らくは自分の学んでいない魔術の作用によってハイダルが意志を交わしているのであろうと理解したタリクは、事態を静観する事にした。
(私は、イリス、だよ)
「……イリス」
そう呟くハイダルの言葉を耳にして、タリクは記憶の中から文献の中でのみ目にした事のある至高の宝玉を思い出す。そして、少女の美しさについて一人で納得した。
「イリス……それで眼が……」
「何か知ってるのか、タリク」
小さく頷くと、タリクは自分の知る知識を語りはじめる。
「イリスとは、東方の密林においてごく希に産出されるという生きた鉱石イリサイトの俗称です。その虹がぶつかり合って燃えているかのような瞳には、ダイヤの数十倍の価格が付くといわれます」
「瞳……まさか」
タリクの言葉を理解すると共に、恐ろしい想像と、情景がハイダルの中に現れる。そのハイダルの様子に、脅えたようにイリスが身動ぎをしたように感じた。
「はい、恐らくはこのイリスの瞳もそのために抉り出されたのでしょう。話には聞いていましたが、実際に目にすると胸が痛みます。まさかここまで美しいとは」
タリクも生まれて初めて目にする生きたイリスの姿に視線を釘付けにされていた。
「イリス……それは本当なのか?」
(……あなたには、私の声が聞こえるんだね)
わずかに、震えたような声がハイダルの脳裏に響き渡る。思わず小さく頷いたハイダルの視界が金色に染まる。少しの混乱の後、イリスが急に立ち上がり抱き付いて来たのだと気付く。
「ちょ、ちょっとまて、何だ一体?」
(こんな遠い所にいるなんて……ひどいよ)
少し拗ねたような色が、その澄んだ声に混ざる。
(ごめん、私の瞳、あなたにみせるまで守り切れなかったよ)
ふんわりとした感触は人間の女性と何ら変わる事はなく、その髪から漂う香りはまるで月夜に咲く花のようで、とてもタリクの言うような人ならざる鉱石とは感じられない。
そのイリスがまるですがり付くかのようにハイダルに抱き付いている。
しばらくそのままで居たいという欲求を振り切って、ハイダルは両肩をつかんでイリスを引き離すと、彼女を覗き込むようにする。
「まあ、落ち着け。何がなんだかよく分からん」
イリスもその視線を感じたのか、目を伏せるかのように顔を心持ち傾ける。
(これまでに、鉱石の声を聴いた事はある?)
「……そりゃまあ、これでも錬金術師のはしくれだからな。元素と意志を通わすくらいは出来るが、おまえみたいにしっかりとした言葉で話し掛けられたのは初めてだよ」
(……錬金術師?)
「ああ、霊薬を作ったり、金でないものを金に変える術を操る連中の事さ」
(金の……それで鉱石の言葉が聴こえるの?)
「多分、そうなんだろう」
けれど、同じように錬金術を学んだはずのタリクにはこの少女の言葉が届いていないようであり、それを不審に思い、ハイダルはタリクを振り返る。
「なあ、おまえにはやはり聞こえないのか、こいつの声が」
「ええ。鉱石の声を聴く事ができるのは一種の才能であって、術でそれを補う事はできないとも言われています。てっきり貴方が昔研究していた念話の成果かと思っていましたが……」
タリクの予想通りに、タリクは首を振って見せる。
(……たぶん、あなただから聞こえるんだよ)
イリスの言葉に僅かな違和感を感じつつ、実際タリクにこの声が聞こえないという事は、単純に精霊に語り掛ける手法とは異なっているということではある。
「……そうか、それで何でこんな所にその幻の鉱物がいるんだ?」
取り敢えず、その件に関しては留保を決め込んで、そもそもの疑問をぶつけては見たものの、実のところこちらはハイダルにとって答えは明白だった。タリクにとってもそうだったのだろう、言いにくそうにしながらも口を開く。
「それはきっと……」
(あなたのお父さんに買われてきたんだよ)
それは予測された経緯、聞きたくなかった答え。
「やっぱりか……あの外道、奴隷なんか買ってきやがって」
「いえ、正確には奴隷では……」
やんわりと間違いを訂正しようとするタリクを睨み付けて、ハイダルはイリスを指差す。
「じゃあおまえは、こいつが人間に見えないって言うのか?」
「いえ、そう言うわけではなく、おじさんが何も彼女を奴隷や慰み者にするために連れてきたとは限らないでしょう?」
「……慰み者」
その言葉を口の中で繰り返すハイダルの様子を見て、タリクは自分の言葉の選択が誤っていた事を感じずにはいられなかった。既に後の祭りではあったが。
「あの外道がぁっ!」
激発して駆け出そうとしたハイダルは、二の腕に抵抗を感じて立ち止まる。
見ると、ハイダルの左腕にイリスが必死の表情でしがみついている。
(駄目、行っちゃ……いやだよ)
ハイダルの中に流れ込んで来る、単純だが、強い想い。
その中に幾分かの脅えを感じ取ったハイダルは身動きを止める。
「わかった、もうしばらくここにいるから、そうしがみつくなよ」
閉じられた瞼をさらに硬く結んでしがみつく様子に、最初に見たときの印象よりも幼さを強く感じ、ハイダルは苦笑してイリスの腕を解いてやる。
(……うん)
「じゃあ、取り敢えずいくつか聞かせてくれ。おまえ、年はいくつだ?」
先ほどの様子から見ると、思っていたより若いのかもしれない、ハイダルはそう思っていた。外見的には彼らと同年代、十六、七といったところなのだが……。
(ハイダルたちの数え方で言えば……十歳、かな?)
「……」
(……)
微笑みながら見詰め合う二人をタリクは眉をひそめて様子を伺う。
「え、いくつだって?」
「タリク……おれの親父は本当に外道か?」
「は?」
「十歳だ、そうだ」
その台詞にさすがにタリクも眉をひそめる。幼女趣味、という言葉が頭をかすめる。
「もっとも、とても十歳には見えないがな」
「そ、それなら、いい、かな?」
「……」
「……」
(……)
やがてどちらからともなく乾いた笑いが起きる。二人が笑っている様を、よく分からないながらも安心した様子でイリスは閉じた瞼を向けていた。
「あの親父、本当に何考えてやがるんだ」
やがて、笑う事に疲れたハイダルが穏やかに微笑むイリスを見詰めながら呟く。
「だから、向こうで慰み者にされるのを見かねて買い取ってきたんじゃないのかな。君の家で保護している分には多分誰も文句は言わないだろうからね」
「……だといいが。まあ、安心しろ。もし親父がよからぬ事を考えていても、おれが絶対に止めてやるからな、人として見過ごすわけにはいかないからな」
(……あの?)
疲れたような微笑みを浮かべて語り掛けるハイダルに、当惑したようなイリスの様子が伝わる。かすかに違和感を感じながらも、ハイダルはふと彼女の名前を知らない事に気付く。
「それで」
(……?)
「おまえの名前は?」
(…………)
しばらくの沈黙。そして、イリスは答えを返す事もなく、再びそっとハイダルに寄りそうと、その二の腕に腕を絡める。その表情はこれまで見られた中でも最高に幸福そうで、美しい。
タリクの目には、ハイダルと頭一つ小さいイリスの姿は、立派な恋人同士に見えた。
難点を言えば、ハイダルの表情が少々硬く、引きつっている事だろうか。
「おい」
(なに?)
「何故、腕を組む」
(嬉しいから、かな?)
とろけるような極上の笑みを浮かべるイリス。そして対照的に当惑したような、むっとしたような表情。誰に対しても余裕を持って対するこの友人が見せたそれは、意外な側面。
照れているのだろうか。とても本人には聞けない事をタリクは想像する。
「いいから、名前を教えてくれ」
腕を振り解こうかわずかに迷いつつもハイダルはそのままイリスを見据える。
(……無いよ)
「無い?」
無邪気ともいえる様子で即答されてハイダルは思わず聞き返す。その胸にイリスが頬を寄せて来る。思わず抱き留めてから、ハイダルはきまり悪そうにタリクを見る。
友人思いで純真な彼はあからさまに視線を逸らそうと顔を捻じ曲げていた。その首筋が真っ赤に染まっている。
(だって、鉱石に名前をつけるなんておかしいもの)
「おいおい……」
その友人の様子と、伝わってきたイリスの言葉にハイダルは呟いた。
(だから……)
声を送りつつ、そっとハイダルに両腕を回す。その存在を感じるために。
(あなたに決めて欲しい、な)
自分の声にならない声を聞き、自分の名前を初めて尋ねてくれた、彼に。
初めて、自分だけの名前が欲しいと、呼んでもらえる名前が欲しいと思ったから。
(……駄目、かな?)
甘えるように、顔を上げて問い掛けて来るイリスの少女に、ハイダルの中に不意に愛しさが溢れる。まずい、と感じた時には既に一度芽生えたその感情が大きく育っている。
「……わかった」
「何がですか?」
話の展開に付いて来ていない友人はこの際置いて、何かこの可憐な鉱石に似合う名前を頭の名からひねり出そうとする。そうして改めて、イリスを見詰める。
雪花石膏の肌、薄い薔薇色に染まる頬。その髪は黄金の波にも似て、その体からは熱い鼓動が確かに感じられる、生きた水晶の少女。祈るように瞑目する姿は、神に祈る巫女のそれであるが、それは彼女の望みではなく光を失った証。人間の欲望の爪痕。
「……シェ…ラ……」
思わず口をつきそうになる名前は、夢語りの美姫の名前。幼げな外見のイリスにはあまり似合うものとは思えなかったが、その神秘的な雰囲気と透明感が彼にその名を思い出させた。
(シェラ……?)
「……それが彼女の名前ですか?」
問い掛けて来る友人に軽く頷くと、ハイダルはイリスの少女に語り掛ける。
「ああ、こいつの名前はシェラ、だ」
(シェラ……うん、私はシェラ,だね)
そうしてイリスの少女シェラはハイダルの胸に顔を埋めた。
(忘れちゃだめだよ。私はシェラ、あなたが名づけた、あなたのイリスなんだよ)
そうして、シェラは高らかに自分がハイダルに所有されるものである事を受諾する。
シェラを胸に抱きながら、ハイダルは呆然とその宣言を聞いていた。
(だから……ずっと一緒に、いてくれるんだよね?)
無防備な笑顔。何故シェラがここまで自分を信頼するのか理解できないままハイダルはぎこちなく頷いていた。
「ああ、そう、だな」
その様子を不思議そうにタリクは眺めている。
「それでシェラ、おまえ言葉は……」
ずっと不思議に感じていた事。
抉り取られた瞳のため、彼女の光は失われている。
それだけではなく声まで彼女は失っているのだろうか、と考えて。
ハイダルのの胸の中に顔を埋めていたシェラは、少し震える声で自分を呼ぶ声に顔を上げて自分にその名を与えた男を見上げる。その表情はハイダルの感情を受けて少し曇っている。
「その……ひょっとして喋れないのか?」
その質問にシェラはハイダルが自分に対して抱く心配を察知する。
そして、それに答える代わりに、探るようにしてハイダルの頬に手を伸ばすと、引き寄せながら自分の唇をその耳元に運ぶ。
「ハ…イ…ダル」
限りなく透明な、けれどこの上なく小さな、囁きかけるような、それでも芯のある声。その響きが軽く屈み込んだハイダルの鼓膜を唐突に震わせたので、彼は驚いて目を見開く。
その視界を埋め尽くすどこか疲れきったようなシェラの微笑みと、再び小さく開いた唇の動きに、どんな言葉も聞き漏らさぬつもりでハイダルは意識を集中する。けれど、その唇は音を発する事をせず、ただハイダルに近づく。そして軽く唇が触れ合わされる。
(私は鉱物だから、あまり喋るのは得意じゃないの)
これまでのどんな声より鮮明な響きがハイダルの唇越しに流れ込んで来る。
(今のが精一杯。でも私の声を聞けるあなただから、聞いて欲しかった)
シェラの唇がわずかに開くと、その舌がハイダルの唇を求めて来る。唐突に思われるシェラの行動に呆気に取られたまま、ハイダルは自分の口内へのシェラの侵入を許す。シェラ自身が言っていたような鉱石で出来ているとは感じられないほど熱い舌が軽く音を立ててハイダルの舌を絡め取る。
(…………!)
瞼を閉じてシェラに応じたハイダルの意識に、シェラは伝えきれない言葉の全てを口移しにしてまとめて送り込もうとする。その膨大な感情の奔流に意識が流されかけて、慌ててハイダルはシェラを引き剥がす。
まだ物足り無げに軽く頬を膨らませたシェラに苦笑を返して、ハイダルは忘れ去っていた友人の姿をやや気恥ずかしげに捜し求める。
……案の定、タリクは耳の先まで赤く染めてあらぬ方を見やっていた。
深く溜息を吐いて、ハイダルはこの純情な友人にどう説明したものかと考えを巡らせた。
「だいたい事情は飲み込めた……おい」
取り敢えず話し掛けているのにタリクは有らぬ方を見たまま反応しようとしない。
「おい、タリク」
「わ、わたしは何も見ていませんからっ……」
ご丁寧に瞼まで硬く閉じ、タリクは何かに憑かれたかのように首を左右に振る。
「あのなあ、それはもう良いんだって。とにかく説明してやるから話を聞け」
呆れてタリクの肩をつかみ、言い聞かせるようにゆっくりと言ってやる。
「はい?」
納得したのか、目を開いてハイダルの方を向いたタリクは、ハイダルの傍に寄り添うシェラの様子に赤面する自分を押さえられずにいた。
「いま聞いたんだが、どうもこいつは口下手、というかあまり喋る事の出来ない体質みたいだ。それがこいつが紛れも無く鉱石である証拠らしいんだが、まあ、それでろくに話も出来ないし目もみえなくなってから向こうの商人も今一つ扱いに困っていたところ、うちの親父がイリスという名前に惹かれて面白半分に買い付けてきた、そんなところらしい」
目が見えなくとも、声は聞こえる。シェラは遠い東の都市で自分の身柄について交渉を行う宝石商人同士の話をしっかりと聞いていた。その内容から、どうやらイリスなるものが東の草原のさらに向こう、山脈を越えてこちらへ運ばれた事は記録には無いらしい。それで瞳を抜かれていても何かの話の種になると踏んだイブゥンがそれなりの金を積んでシェラを身請けしたようだ。まあ、どの道ろくでもない理由だろうが。ハイダルはシェラの伝えてきた内容から彼女がここまではるばる運ばれてきた事情を推測した。どうやらまだ具体的に売り手を定めてはいないようだが、後程そのあたりを確認する必要があるだろう。
というのがシェラがこの都に連れてこられた事情であるらしいのだが、そのような記憶以上に、先ほど脳裏に流し込まれたシェラの想いはハイダルを驚愕させていた。
イリスには、それぞれに必ず一人はその鉱石としての声ならぬ声を聞く事の出来る人間が存在する。けれど多くのイリスはそのような人間に巡り合えるよりも先に寿命を迎え、また同じ人間たちによって捕獲されてしまう。けれど、鉱石と人間の中間であるイリスの最高の望みは常に自分の全てを聞き取ってくれる人間と共にある事。そのために時にイリスは危険を冒して人里に現れる。そして、捜し求める人間を見付けたとき、イリスは人としての生を得ると言われている。少なくともシェラはそういう記憶を抱いて生まれてきたという。
(……でも、ちょっと遅かったかな? せめてハイダルを見てから、ハイダルの手で抜いて欲しかったな。本当に……こんな遠くで逢えるなんて……でも嬉しいよ)
支離滅裂にになりそうな想いの中で、シェラは最後にそうハイダルに伝えた。
「で、イリスにとって自分の声を聞ける人間はそうはいないらしくて、すっかりなつかれちまったらしい。話の通じる奴がいて安心したんだろう、きっと」
さすがにイリスの事情をタリクに伝えるわけにもいかず、その辺りは言葉を濁して言い訳をしようとするが、しっかりハイダルの右腕にその両腕を絡ませるシェラの信頼しきった様子を説明しきれているとは自分でも思えない。もっとも、本当の事を教えたところで信じられるかは疑問ではある。
「そうですか……それは、大変でしたね」
そういうタリクの方を向いてイリスが首を振って見せる。
(そんなことないよ、だってハイダルはここにいたんだから、わたしは満足してるよ)
経緯はともかくとして。
「取りあえず、おれは親父にこいつを奴隷として売ったりしないように説得してみるつもりだ。おれにこいつの声が聞こえるのも何かの縁だろうし、何より美人だからな、貴族連中に渡すのは勿体無い」
「……またあなたの悪い病気が始りましたか」
「……うるさい」
「……今回は深みにはまりそうですね」
「……うるさい」
そう言いつつも、タリクはハイダルが基本的なところで善人である事を知っている。何はともあれこのシェラという少女にとって悪い事はしないだろう、そう考えていた。その判断は間違ってはいなかったが、そのことが結果として何を意味するのか、彼も、ハイダルにもまだ判ってはいなかった。
(続く)
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