「アンリ・フレアマンの最後の日々」
words by 飛鳥一也
一九七五年十月二日
明け方に、夢を見た。そこで僕は、遠ざかる記憶の中の彼らと共に生きていた。ここ数十年来無いほどの、鮮明な夢だった。その映像は、不意に僕の心をかき乱す。コンラッド。遠い昔に、その透き通るガラス玉の瞳を見たように思う。遠い日の記憶は夢のようなものだ。そして、その夢の中には、思いがけない何かが潜んでいるように思える。僕が生みだそうとしている彼に、かつて出会ったはずもない。しかし、彼の記憶、コンラッドの記憶、思い出せるはずのない記憶に出会ってしまった。僕は、出会ってしまったと言うしかない。想像も出来ない何かに出会うということ、それは「現実」であるとしか言い様がない。
Jの丁寧な仕事は感嘆に値する。右手の動きに磨きがかかる。動きと動きが重なり合い、少しぎこちなかった腕の動きが、柔らかで繊細な優雅さをもつようになった。見違えるほどだ。彼の才能を、この場所に置いておくのは、惜しいことだ。今の時代に自動人形を作ろうとする、それ自体が一種の時代錯誤なのだ。しかし、一つ一つの動きを突き詰めていくことで、複雑な動きの全てが、あの輝かんばかりの単純さを生み出していく。そこには、何か名状しがたいものの生成が感じられる。
始めてからちょうど三年が経過した。そろそろピリオドを打たなければならない。彼にも、そして僕にも。
一九七五年十月三日
感謝祭の喧噪も徐々に遠ざかっている。暑くも寒くもない。いよいよ最後の仕上げにかからねばならないが、調整した足と腕の協調が上手くいかず、胴体のムーブメントをもう一度見直す必要があるかもしれない。
昼過ぎに、持ち込まれた人形に手を入れる。もうやるまいと決めていたのだが、自分が二十年前に作ったものを持ち込まれては、断ることも出来ない。Jに見せてみたが、細かく見ていく前に既に諦めている。諦めが良すぎる所は、彼の欠点だろう。ふたを開けると、時の流れには勝てなかったのか、いくつかの歪みが見られる。この歪みの変化を見通すことは、とても難しい。不可能と言って良いだろう。あるべきところへ、それぞれが収まっていく間に、必然的に少しずつの歪みが生まれる。どこかに手を入れれば、別の部分が歪むだけだ。全てが正しい状態にあるということは有り得ない。むしろ、歪みの存在を前提にするしかない。それは、余裕を設けるということではない。どれだけ余裕をもったとしても、それを越える歪みが有りうるという点に、問題が存在するのだ。歪みを歪みとして受け入れること。そして、壊れても直すことが出来ること。機械は壊れるものだ。壊れることを前提としていない機械は、決して強くなることは出来ない。当たり前のように思えるが、人は誰しも完璧を目指す。最も堅牢なものを目指す。そして、壊れる。砕け散った破片は、もはや直ることは無い。
夕方に湖畔まで出る。雲が厚く垂れ込め、水面は重い灰色のまま遠くの山々を写している。もう何十年もこの風景を見続けているが、この季節の重苦しさは何も変わらない。
夕方、久方ぶりにS氏が来る。面白い話は無い。時計や自動人形それ自体に関心を示す人間は、長い間減り続けている。歴史美術博物館も、何か新しい方向性が必要だと言っていた。しかし、新しい何かが存在しうるのか。時計は時間を計るものだ。しかし、より時間を正確に表す機械は、この世界自体の根底までたどりついてしまった。我々の目にしているような時計が「時計」でありつづけるためには、時計の正確さを追求することが出来ない。これは、矛盾だろうか。機械の時計性が、機械そのものを裏切るような。
三年前になぜあれを作り始めてしまったのか。この何十年で僕は、多くのものを失ってきた。その代わりに得た確かなものは何だろうか。六十年の間、作り続けてきた僕の子供たち。この視界に広がる、僕の世界。
一九七五年十月四日
個展まであと一週間を切っている。Sの熱意に負けて発表することになってしまったが、このままでは間に合うかどうか分からない。本当ならば、あれは、自分が自分のために作ったものであって、誰に見せる必要も無いはずだった。だが、一旦公開すると決断してしまった以上、なんとかしなければならない。もっとも、今更、時間というものに追われる必要は無いということも確かだ。僕は十分に生きた。残された時間は、多いかもしれないし少ないかもしれないが、「彼」がそこにいることだけは確かなことだ。解決の目処は立ってきた。Jの見事な調整を見直す必要があるだろう。若さは何かを成し遂げる力であるが、その反面、他の何かを見ることが出来ない。自動人形は、それ自体が、一つの宇宙だ。完成された一つの要素が、他と繋がることが出来ないのであれば、それは宇宙を作ることが出来ない。Jに、そのことを伝えられればいいのだが。これは、伝えることの出来る知 識ではない。それぞれが、それぞれの中で、調和を発見するしかない。
夜に雨が降り始める。街路を流れる水音は、記憶の中を滑り落ちていった。あの時なぜ僕は気がつかなかったのか。いまだにそんなことを考えてしまうことに、苦笑するしかない。
一九七五年十月五日
雨が降り続く。こんな日は、あの陰鬱な日を思い出す。記憶の奥底に封じられたその情景は、僕を常に苦しめてきた。僕は生涯,この痛みから逃れることは無いだろう。大切な人々は、僕の元を去っていく。しかし、それが生きるということなのかもしれない。残された人間に何が出来るだろうか。
閑散とした日曜の街を気晴らしに歩く。教会へと向かう、人影が疎らな坂道を上ると、時計台の前へと出る。黒猫がゆっくりと歩き、突然、こちらを振り返った。この風景を、遠い昔に見た気がする。サティのグノシエンヌが遠くから流れてきた。静かに、時間が失われる。光りも影も無い。何百年も変わらず、こうした時間を過ごしてきた黄土色の街は、どれくらいの間、静寂な時間を飲み込んできたのか。湖と森にかこまれた、閉じられた世界。ここに人々が街を作り、過ごしてきた千年以上の間に、何が変わったのか。その重みの深淵に触れた気がする。時計がぐるぐる回る。人形がくるくる踊る。何もかもが変わっていくが、何も変わらない。冗談にしてはタチが悪すぎる。
瞳の動きが完成した。Jが入れた瞳の出来を確かめようと、顔を覗き込んだ時、一瞬、気が遠くなる。僕は何をやろうとしているのか。もう後悔しているのかもしれない。いよいよ、その時が来る。
一九七五年十月六日
朝遅くに起きる。Jは来ず。最近、Jはどこかの時計屋によく通っているようだ。まあ、彼には彼の自由がある。ここで一生を過ごすことは無い。
足首の動きを再検討する。もう一度図面を引き直そうかと思い、机に向かったが、右腕に全く力が入らず、思い通りに動かない。これで何が出来るというのか。視界も霞んだため、一日、ベッドの上で過ごすことにする。
チューリングの論文を再読する。初めて読んだのは10年以上前のことだが、今でもその鮮烈な衝撃を忘れることが出来ない。僕が触れてきたものを語る道具立ては、これしかない。全く畑違いの世界であり、完全に理解しているわけでもないが、僕はこれ以上完璧な自動人形の表現を見たことが無い。我々の側に螺旋があるとしたら、あちらの世界にあるのは何なのか。歯車と歯車の間に潜むものは、語るに値するだろうか。
一九七五年十月七日
一日ゆっくり休むことで、気力体力ともに回復。もう一度全体を見直した結果、このままでいくことに決断する。やり直すことが常に良い結果をもたらすわけではないことは分かりすぎるほど分かっているが、あきらめられない部分もある。もちろん、十分に問題が無いならば、やり直さないことも一つの勇気だろう。その限界の見極めは、どこまでいっても果てが無い。
カフェで昼食。あいかわらずはっきりとしない天気が続いている。晴れた日には輝かんばかりの美しさのユングフラウも、重苦しい姿をさらしている。黄土色の町並みは深く沈んでいる。
残った部分の組み上げにかかる。全てが予定通りにいっていたとしても、いつもこの時期には名状しがたい不快感がある。ものを作るということは、99%以上、計算でしかないはずなのに。機械は結果でしかないはずなのに。
一九七五年十月八日
もう日付が変らんとする頃、ようやく全てが組み上がる。とうとうこの時が来た。何十年もの間、このためだけに生き続けてきたといっても過言ではない。残された僕が出来ることは、これだけだった。しばしの間、このどうしようもない感情に身を委ねる。
Jが不思議そうな顔をして問い掛けてきた。当然だろう。それには、何の意味もない。だが、それ故に意味がある。美しくあるためには、全てが宇宙を成す必要がある。無駄なものは何一つとして無く、全てが完璧に協調しあった瞬間、あの美しい響きが生まれる。人形も同様だ。あの小さな世界の中に、数え切れない程の歯車が、ばねが、はずみ車がある。一つ一つの動きは単純でも、それらの関係性は破綻寸前といっていいほど複雑だ。そして、その複雑さの中から、あの優雅な美しさが、奇跡的な単純さが、生まれる。そこには、何一つの無駄もない。だから、あのしかけは、人形の世界から完全に独立している。しかし、それは我々も同じなのだ。螺旋を自らの内に取り込んだ時、引き返せない道を歩き出した。だから僕は、彼にそれを授けよう。理解されなくても良い。
一九七五年十月九日
Jに残りの仕事を全て任せ、明日の準備が進められている展示会場へと向かう。
何十年も前から、この世界には目立った進歩が無い。戦争の後は、好事家や旅行者たちが集まるだけだ。表層的な賑やかさの裏で、多くの人々が去っていった。かつて多くの人々が訪れたこの催しも、もう多くの人を集めることは無い。歯車とゼンマイで一つ一つ丁寧に作られていたおもちゃたちは、姿を消した。受け入れられているものは、得体の知れない仕組みで動いている、機械が作った機械。何かが失われたと強弁するつもりはないが、奇妙な冷たさがある。かつての、内省を促す豊かさが無い。ただ回ること、ただ動くこと、僕は夢中になって人形たちを見つめ続けていた。今は、平坦な刺激があるだけだ。いや、それも、単なるノスタルジーでしかない。本当は、何も変わっていないのだ。ただ、遠くに来てしまっただけだ。
かつて、日常に人形があった時代があると聞く。僕たちは、彼らに何を託していたのか。それとも、託していなかったのか。忘れてしまうことは簡単だが、思い出すことは容易ではない。思い出すということは、意志ではなく事件のようなものだ。誰も記憶を自分で操作することなんて出来やしない。
Sは、僕の個展がこの展示会の目玉だと言う。あれほど宣伝するな、と言っておいたにもかかわらず。この3年間、多くの仕事を断ってきた。僕に関心を示す人間なんてさほどいるはずがない。それに、多くの人があれを目にしたからといって、もはやそれは、単なる興味を引く見せ物という以上にはならないだろう。
一九七五年十月十日
朝早く起きる。ことのほか寒さがこたえる。窓の外は、この季節としては例外的とも言える青空だ。全てが光り輝いて見える。湖面に写る町並みをじっと見つめる。向こう側に、壊れやすい世界がある。
ホールへと向かう。個展と同じフロアで、同時に自動人形展がはじまっている。華やかなパフォーマンスが繰り広げられている。全ヨーロッパから来た商人たちが、それぞれのコレクションを広げている。それを目当てに、好事家たちが右往左往している。もう何年も前からこの場所が、かつて僕が手がけた人形たちと再開する貴重な機会となっていた。時の流れに取り残されたような美しさのものもあれば、もはや見る影もないほどに汚れきったものもあった。しかし、それぞれが、それぞれの時間を過ごしてきたことだけは痛いほど分かる。
この五十年、あまりに多くのことが起り過ぎた。多くの人々の背中に、覆い隠せない傷があるように、人形たちにもそれがある。
一九七五年十月十一日
個展も二日目に入ると、ある種の奇妙な落ち着きを取り戻し始める。
夕方、遠くの街からやってきた来たという、不思議な少年と少女に出会った。せっぱつまったように何かを追い求める姿は、この場の行動としては妙にそぐわない。最も気になった点は、彼らが「何か」を捜しているわけではないようだという点だ。ここに追い求める何があるというのか。そして、少女は突然倒れ、僕のアトリエに来た。彼らは、求めていた何かをここで見つけたのだろうか。目を覚ました彼女は、怯えていたようだ。Jは、彼らのせっぱつまった様子を少し茶化したように表現した。しかし、僕にはそれが、単なる子供のわがままにはとても思えなかった。
自らのことを人形だと思い込んでいる少女。そして、彼女が出会わなければならなかった「人形」。彼女の存在は、僕に少なからぬ衝撃を与えた。彼女と「コンラッド」は、互いに求めあうように、出会ったのだ。でも、どうして。何のために。何の必然性も無かったはずだ。
いや、何のために、という言葉ほどこの場に似つかわしくない表現も無いだろう。出会いには、それ自体に意味は無い。それは、出会ってしまったという事件なのだ。事件に意味を与えるのは、それぞれの生である。世界は必然に満ちている。しかし、僕たちには、それを「偶然に満ちている」としか感じられないのだ。
ならば、僕は何故、彼らを作ったのか。ミュリエル、彼女の名前は、僕の妻と同じ名前だ。これも何かの必然なのか。世界という機械の、歯車が回る。
一九七五年十月十二日
個展が終わる。僕は、果たすべき義務を果たしただろうか。しばらくは、安らかな時を過ごしたい。
数多くの人々が、彼を、「コンラッド」を、賞賛した。もちろん彼は、僕の到達点である。多くの商談があったが、もちろんそんなものは最初から無意味だ。僕は誰かのために彼を作ったわけではないのだから。
秋。夜が深くなる。闇の寒々しさ。Jは、個展の片付けに奔走している。コンラッドをアトリエに運び込む。40年前と変わらない微笑みで、彼はそこに座っている。コンラッドが好きだった、黒猫と白兎のおもちゃを側に置く。かつての輝かしい日々が戻ってきた。
一九七五年十月十三日
なんという穏やかな時間だろうか。こんな穏やかな時間を過ごしたのは、何年振りだろう。快い目覚め。長い間のわだかまりが解けていく。
Jは、しばらく旅に出ると言っていた。Jがここにきて、もう6年。そろそろ、彼も独り立ちをする頃なのかもしれない。
一九七五年十月十四日
微睡んでいる。夢の中で過ごす時間が長くなったような気がする。夢もまたもう一つの生だ。
一九七五年十月十五日
窓から差し込む光で目が覚めた。簡単な朝食を用意する。誰もいない朝。
近所の広場ですごす。コンラッドは、この広場で猫と遊ぶのが好きだった。猫を追いかけて良く転んでいたものだ。何か大切なことを忘れているような気がしてならない。
一九七五年十月十六日
人間が、機械を作る。機械が、機械を作る。人間が、人間を作る。
久々に外に出る。山を歩く。木々が赤く色付きはじめている。肌寒い。終わりの季節だ。こうして、1年のうちに、誕生と、成長と、成熟と、終わりが秘められている。人間はそれらの季節を、繰り返し、繰り返し過ごしていく。生きているうちに何度、こういった時間を過ごしていくのだろうか。多くのものが死に絶え、しかし、その内に新たなる生命を秘める。百年が一日に凝縮されたようなこの街にも、そうした静かな変化が層を成している。
アトリエは、静寂が支配している。濃い珈琲の香りがたちこめている。
一九七五年十月十七日
自由は、人間のみに与えられた特権なのか。コンラッドは、外に出たがっている。そうとしか思えない。彼を作ったのは、こんな所に閉じ込めておきたいからではなかった。
人形にとっての自由とは何か。いや、ナンセンスだ。そんなことを考えても仕方がない。
一九七五年十月十八日
不快な客人が現れる。「コンラッド」は、幾ら積まれようが、僕が自ら手放すことは決してない。彼にとって、コンラッドは交換可能な何かでしかない。もちろん、万人が万人にとって、交換可能な何かでしかない。それ以外の認識は全て幻想だ。しかし、幻想を生きる、ということが、この生を本当に、意味づける。コンラッドがどれだけ大切なものか、だれにも分からない。
苛立たしい。理解されることも、理解されないことも。
一九七五年十月十九日
孤独だと思われてもいい。孤独には、本当も何もない。だれも孤独の本当の姿を知らない。ただ、死のみがその姿を知っている。
コンラッドは、何も答えない。
教会まで散策。礼拝堂では、オルガンが鳴り響いていた。若者たちの合唱が、あたりを満たしていた。16世紀から残っている、特徴的な格子状の天井を見つめる。ここに、どれだけ多くの人々が訪れ、祈ったのか。祈りは音となる。
この100年で人間が大きく変わった、というのは本当だろうか。人間は常に、こういうことを繰り返してきたのではなかったか。
バゲットを買い、質素な夕食を取る。
一九七五年十月二十日
宇宙の生成。簡単なものだ。材料も、何も必要無い。必要なのは、一瞬前と一瞬後にどういった関係が成り立つのかという数式だけで良い。あとは、全てが自動的だ。Jは、いつものように、驚いていた。気付いてしまえば、なんてことはない。
目が覚める。
人は神にはなれない。分かりきったことだ。しかし、そんな分かりきったことが、夢の中では分からない。
一九七五年十月二十一日
朝起きて、柔らかい光に包まれたコンラッドを見る。微笑むような、泣くような、透き通る表情をしていた。
我に返って、僕は言葉を失った。なぜ僕はこんなものを作ってしまったのか。気が狂いそうだ。でも僕は、もうコンラッドの側を離れることは出来ない。40年前にそう誓ったのだ。
あの少女が驚くのも無理はない。これは、完璧な人形だ。生と死を超越している。彼は、世界の外で生きる。僕たちの中にも、この世界では生きられない種類の人間がいるのだ。あの少女は、生き続けることが出来るだろうか。
一九七五年十月二十二日
コンラッド。コンラッド。コンラッド。
一九七五年十月二十三日
オルガンの音が鳴り響く。オルガンは、人間の作った最も完璧な楽器=機械の一つだ。世界を統べる音。しかし、楽器は音を鳴らすが、それ単独で機能することはない。人は、音を鳴らす機械から、音楽を鳴らす機械を作ろうと苦闘した。しかし、結局のところ楽器は音を鳴らすだけの能力しか持つことはなかった。音楽は、音にとって外部である。楽器にとって、人間が外部であるように。
目が覚める。幻聴か。
一九七五年十月二十四日
Jが帰ってくる。
何かを語りかけようとしたが、開きかけた口を閉ざす。決して理解されないことを伝えようとしても仕方がない。今はただ、目の前に起っていることを、出来るだけありのまま、書くしか無い。しかし、ありのままに書くことなど、出来るはずがない。書くことが、「僕」を作る。つまり、僕が作ってきた人形たちが、僕を定義する。仕事をするというのは、結局のところ、そういうことなのだ。
僕が彼に伝えられる全ては、技術的なことだ。しかし、技術=メカニズムを馬鹿にすることは出来ない。全てのことに、唯一つだけの道筋があり、それを辿っていくしかない。音楽に到達するためには、譜面通りに弾くしかない。それ以外の道筋でたどり着いた全てのことがまやかしである。そういう意味では、独創性など無い。しかし、たどり着いた果てにあるものが何なのか分からない以上、そこにあるものを求めて道を辿るしかないのである。
そうしてたどり着いたものが何であったとしても、それが本当に望んだものなのであれば、人はそれを受け入れざるを得ないだろう。強すぎる願いは世界を壊す。ただ淡々と生きるしかない。
一九七五年十月二十五日
あの水晶林の美しさ。
夢の中とは思えない。まだこの世界の外が果てしなかった頃の幻想。
記憶の中を生きる。
一九七五年十月二十六日
自分が、自分にとっての主人になること。本当の仕事をするためには、多くの犠牲を払わなければならない。僕は、本当の仕事をしただろうか。名声や地位は全く関係がない。ただ僕が生み出したものを、肯定することが出来るかだ。
一九七五年十月二十七日
朝から遅くまで、講義にあてる。受け継ごうとして受け継がれるものではないが、Jが学ぼうとしている限り、僕は彼に何かを示さなければならない。その上で、彼が何をやるのも自由だ。
一九七五年十月二十八日
もはや僕がやるべきことは何もない。Jの作業を見る。正確さは申し分無い。しかし、全てはこれからだ。
一九七五年十月二十九日
どうしても、見るだけということに徹することが出来ない。これは、僕の欠点であろう。自分でやらなければ済まない性分というのは、若い頃は美点であろうが、この歳で何もかも自分でやろうとする人間は、単に害なだけだ。Jに教えることは、もう何もないだろう。あとは、彼が自分で何を成し遂げることができるのかを気付ければ良い。しかし、「気付き」は教えることが出来ない。彼が自分の道を発見してくれることを願う。
一九七五年十月三十一日
記憶の底に沈んだ町並みは、神の怒りに触れて水の底に沈んだ街を思い起こさせる。
黄土色の街並みが少し煙っている。
一九七五年十一月一日
人形たちは、宇宙を作れるだろうか。一人の人間が宇宙を作り出す。バッハ。
一九七五年十一月二日
本格的に、地下倉庫の整理を始める。僕が遠い昔に作った、大きなバレリーナの人形を見て、Jが驚いていた。よく分からない。マドレーヌは、早くに死んでしまった僕の姪がモデルになっている。
一九七五年十一月三日
コンラッドは静かな美しさを湛えている。
一九七五年十一月四日
時計台の所で見かけた黒猫が、窓の外からコンラッドを見ていた。猫は、何を見ていたのだろうか。
一九七五年十一月五日
納屋を整理していたら、小さなバレリーナの人形を見つけた。かなり古くなっていたので、細かく手入れをする。おそらく60年代の初期に作ったものだろう。その直線的な動きを見ていたら、ふとあの少女のことを思い出す。彼女が踊っていた「くるみ割り人形」の踊りが忘れられない。それは、完成されているとはとても言えないものだったが、なにかこう、人間の持つ不安定性を具現化したものだった。境界領域。完璧になればなるほど、その美しさは、人間を越えてしまうように思われる。人間は完璧ではない。完璧になろうとする時に見せる不安定性。
Jにこの人形を託す。あの少女が再びこの場所を訪れることがあれば良いのだが。その時の彼女は、人形のままの彼女だろうか。それとも、彼女の中で何かが変わっただろうか。
それにしても、僕はいつ彼女が踊るのを見たのだろうか。思い出せない。
一九七五年十一月八日
Jは、困難な道を選ぶと言った。しかし、Jが選ぼうとしている困難な道とは何なのか。簡単な道と困難な道、二つ道があった場合、常に困難な道を選ぶといった。しかし本当は、どちらが困難なのか分からないことが問題なのだ。心安らかに日常を生きることが困難でないなどと、誰が言えるだろうか。
常に警戒しなければならない。
一九七五年十一月九日
日曜日毎に流れてくる、かすかなオルガンの音。
歴史美術博物館へと足を向ける。偉大な仕事は、時代を越える。「残る」のではなく、世界を超越する。後世に残されるのは単なる結果に過ぎない。
一九七五年十一月十日
コンラッドと「コンラッド」は同一だろうか。
一九七五年十一月十五日
作られたものは作ったものを超えうるか。
一九七五年十一月十七日
本当に生きる、ということ。夢の中を生きることを。夢よりも深い覚醒に至る道。
一九七五年十一月十九日
悲しいばかりだ。僕は、このまま全てが失われるのをだまって見ているしかない。
一九七五年十一月二十日
夢は所詮夢だ。現実ではない。
一九七五年十一月二十二日
多くの回り道をしてきた。人生の90%は、無駄に過ごしてきた時間だ。人が本当に仕事をする期間は、驚くほど短い。しかし、無駄に時間を過ごさない、ということが可能なのだろうか。僕がたどり着いたこの場所は、予定されていたことなのか。回り道をしなければ気付けないことに気付かない人生は、無駄ではないとでもいうのだろうか。
無駄が全く無い人生。しかし、死ぬ瞬間に全ての崩壊に気付くというほどの不幸は、他に無い。
一九七五年十一月二十六日
倉庫の整理が終わる。倉庫に眠っていたもののうち、一通りのものをアトリエに並べ終わる。手元に残っているものだけを集めても、これだけのものが残っている。全てを一斉に動かすという試みをする。一つ一つの動きは美しいが、まとまってみると、何とも言えない混沌を生み出してしまう。しかしそれを、単に美しくないと断言してしまうことは、早計に思える。
一九七五年十一月二十七日
一つの人形が動く。完璧に統制された動きを見せる。しかし、その美しさは、あらかじめ完成されたものでもある。人形は、作られた時点で全てが完成している。それ以上のものは何も無い。
しかし、本当にそうだろうか。
一九七五年十一月二十八日
珍しく、天気が良い。秋も終わろうとしている。厳しい冬が来る。
一九七五年十二月二日
この世界は閉じられることが無い。作られたものが作ったものを越えるとしたら、それは、多くの人々の中に作られたものの心像が結ばれるからではないだろうか。人形は結果である。作ったものが全てを決める。しかし、「変化をしない」ということをもって、変化するものを映しだすことは出来る。演奏者が生きていれば、楽器も生きている。人間が生きていれば、人形も生きている。つまりは、そういうことだ。どちらが静止していて、どちらが動いているか。決められないことを決めること。
一九七五年十二月三日
必要がなくなったものは、単に忘れ去られるだけだ。変化をしないということは、忘れ去られるということではない。受け継ぐ人間がいるからこそ、変化しないことが可能になるのである。変わらないものなど何もない。しかし、そのこと自体を示してくれる何かが必要なのだ。
一九七五年十二月四日
窓の外では、雪がちらついている。寒さが厳しい。自らの中に熱を持たなければ、この冷気に耐えることは出来ないだろう。
一九七五年十二月七日
バッハの変ホ長調のプレリュードとフーガが流れている。何もかもが静かだ。雨の日曜、窓の外は閑散としている。
ようやく分かってきたような気がする。「コンラッド」の意味が。
それは、悲しみではないが、喜びでもない。あるべくしてある、という言葉を、身に沁みて感じる。
一九七五年十二月八日
寒さが厳しい。思い通りに身体が動かないのが、もどかしい。Jが身辺の世話をしてくれなければ、とっくに死んでいるだろう。
一九七五年十二月九日
目覚めつつある、という感触がある。今までそばにあったあらゆるものに対して目を閉ざしていた。
全てが、あるべくあるという姿を見せる。音が音に還っていくように、ものがものに還っていくように、人も人に還っていく。ここからはじめなければならない。
一九七五年十二月十日
揺れる。往復する。回転する。螺旋を描く。
光が明滅する。
僕は、驚くべき単純さにたどり着いた。
これを「恩寵」以外の、何と言えるだろうか。
敬虔に。そして、自由に。
それは、全てが終わる日まで、続くだろう。
(了)
最後に「日記」が記されてから三日後の一九七五年十二月十三日、アンリ・フレアマンは宿痾に倒れ、同年十二月二十日にヌーティシャル郊外の自宅で、この世を去った。73歳であった。