long time gone

〜 HAPPYTALK story 〜

Words : 関 隼

カーン カーン カーン ………
物悲しい音色にふと顔を上げる。後ろを振り返ると、ついさっきまで荷を積み込んでいた艦で点鐘を鳴らしている事が分かった。最早太陽も姿を隠し、やっと水兵達にも自由な時間がやって来たようであるが、遠ざかる船からそれを確認する事はできなかった。
「どうしました?船長」
脇で舵を取っている若い水夫が口を開く。
「………いや、何でもない」
水兵達の事を考えていたなんて言っても、仕方がない事である。船長と呼ばれた男は少し大袈裟に首や肩を動かした。
「今日は疲れたよ。早く帰ってゆっくりしたいもんだな」
「まったくですよ」
水夫もうんうんと頷く。が、すぐに苦い表情を取った。
「もっとも、帰りには食い物探しなんですがね」
船長が苦笑いをしながら水夫の肩を叩く。
「まぁ、仕方ないさ。こんな時節だからな」
時は1915年12月。船長………ジェイムズ・ルイスは未だロンドンにいた。

船着き場に戻り、一通りの点検の後に解散。ジェイムズがコートを着て食料品店に行く頃には、夜空からは雪がちらついていた。
「冷えるもんだな」
少し震えながらひとりごちる。そろそろ五十も半ばになろうとするとする体にこの寒さは正直つらいのだが、最早部屋の食料は尽きていた。今日の買い出しは重要極まりない。 「年越しまでの分が買えりゃあいいが」

食料品店は、ジェイムズのご同類でごった返していた。ただでさえ品薄の棚は、さながら現代のバーゲンのごとき争奪戦の原因になっている。
[やれやれ………]
内心はそう思いながらも、ジェイムズは果敢に争奪戦に参加する。確かにうんざりしてはいるが、この争いに参加しない限り明日からの食料は手に入らないのだ。必死になって商品をつかみ、これまた必死になって帳場の親父のもとに馳せ参じる。勘定を済ませながら、ジェイムズは茶の葉がきれかけている事を思い出した。
「ああ、それと………」
そこまで口に出して、ジェイムズの動きはぴたりと止まる。自分の船の水夫が、この店でまぜ物入りの茶葉を買わされた話を思い出したのだ。
「いや、何でもないんだ」
親父が不思議そうな目で見るのを無視して、店の外に出る。少しばかりのパンと調味料、それにベーコンと鮭の缶詰の入った袋は軽く、これで年越しまで暮らす事を考えると、ジェイムズは心の中に何とも言いがたい暗さを持った雲がかかるのを感じた。ふと周りを見ると、人々の表情は彼の心中と同じ位暗く、その歩調は一刻も早く家に帰りたいという 速さである。ジェイムズは軽く首を振って、暗い街を歩き出した。

ちらつく雪の中、やっと部屋の玄関にたどり着く。ドアを開けると、荷物を置いたジェイムズは光量をぎりぎりまで押さえたランプに火をつけた。何とも頼りない光ではあるが、これも安全の為と思えば何とか我慢もできた。
[向かいみたいになるのはごめんだからな]
つい先日、ドイツ軍の空襲で向かいの建物が爆発して以来、ジェイムズは夜の明かりを細くして生活している。何処かで、
「奴等は明かりが見えた所に爆弾を落とす」
という話を聞いたからである。確かに、オーヴンとテーブル位にしか光が届かないが、もともと殺風景な男の一人暮らしである。はげかけた漆喰や掃除しても汚れの取りきれない床が見えなくても何の支障も無かった。
「さて、と………」
火をおこしてから鮭の缶詰を開けて、フライパンで火を通す。カップの底が透けて見えるくらい薄く入れた紅茶と、鮭に火を通す時に近くに置いて暖めたパンをならべると、彼の夕食が完成した。短い祈りの後にテーブルにつき、さあこれからという時に、
ドンドン ドンドン
無粋なノックが彼の動きを止めた。
「ジェイムズさん、ジェイムズ・ルイスさん。警察の者ですが」
さらに身が硬くなるのを感じる。彼は警察が好きではなかったし、最近連中はドイツのスパイを怖れてやたらと過敏になっているのを知っていたからである。
「何か、用かね?」
細く開けたドアから、覗き込むように用件を聞くと、疲れきった顔の警官の姿が見えた。
「夜分失礼します。あなたの親類だという方をお連れしたんですが、確認していただけますか?」
どうやら、当の人物は警官の後ろに控えているらしい。仕方なしにドアをもう少し大きく開け、その人物を彼は確かめた。

「………………………デイジー?」

短めに揃えられた髪、面差し、瞳、体つき………どれをとっても、そこに立っているのは彼の姪だった。ただし、今から二十年前の姿の。
[おれは、夢でも見ているのか?]
自分の頬をつねりたい衝動を必死に押さえ、彼女をよく観察する。まるで、妖精の国から帰ってきたように何も変わっていない。あの年、チェストにされたマリアを救いにやってきた時のまま………
[ん?]
彼女の髪を見て、ジェイムズの思考は止まった。髪の色が、違う。デイジーはまさにまごう事なき黒髪だった筈なのに、彼女はかなり茶色が混じっている。ヘイゼル・カラーとい言った方が通りがよさそうだ。そして、彼はその髪の色に見覚えがあった。
「確かに、私の親戚です。ご苦労様でした」
ジェイムズがそう告げると、警官は心底ほっとしたように見えた。
「そうですか、いや、よかったよかった。それではお引き渡しします」
警官が去っていくのを見送って、ジェイムズは彼女を見やった。
「寒かっただろう?早く入りなさい。ちょうど食事時だが、サーモンは好きかね?」
彼女は無言で、ジェイムズの問いに答えなかった。

「さて、おれの勘が正しければ、君に謝らなければならないな」
部屋に二つしかない椅子を勧めて、彼女の前に自分と同じメニューを並べると、ジェイムズはそんな事を口にした。
「そうね、あたしもそう思う」
薄い紅茶を一口飲んでから、彼女も頷く。
「あたしは[ローザ]よ?[デイジー]じゃ、お母さんだわ」
「すまんな。何しろ最後に会った時に、君は三才だったんだ。こんなに大きくなるなんてなぁ………」
目を細めるジェイムズに、ローザと名乗った彼女はため息をついた。
「大おじさん。あたしももう十三なのよ?」
「ああ、確かに。悪かったよ、ローザ。それで、ロンドンには一人で?突然来たんで、びっくりしたよ」
パンを分けるジェイムズに[ありがとう]と礼を返しながら、ローザは少しバツ悪そうに下を向いた。
「いいえ、デイジー母さんと、グレン父さんも一緒よ。その、つまり、イースト・エンドの辺りではぐれちゃって………」
「で、警官にここまで送ってもらったのか」
ジェイムズは呆れ顔である。
「ええ、前にデイジー母さんの手紙の宛先を見て、住所は知ってたから」
「それじゃ、二人が探しているんじゃないか?こんな所で悠長にしていちゃ………」
慌てて立ち上がろうとするジェイムズを、ローザは左手で押しとどめた。
「大丈夫よ。二人とももうすぐここに来るわ」
「え?」
その時、玄関のドアがタイミングよく叩かれた。

ドンドン ドンドン ドンドン ドンドン
「はいはい、何かね一体」
切羽詰まった調子のノックに辟易しながら、ジェイムズがドアを開ける。そこには、一組の夫婦が立っていた。ジェイムズの勘がピクリと反応する。
「デイジー!それにグレンもか。久しぶり!十年ぶりくらいかな?」
「ああ。ジェムおじさん、お久しぶり!ゆっくり挨拶したい所だけど、そうも行かないのよ。実は、娘のローザがわたし達からはぐれちゃって………」
よほど焦っているのか、一気に用件を捲し立てようとするデイジーを、ジェイムズは苦笑いしながらなだめる。
「まぁまぁ。君の大切なお嬢さんなら………」
「あたしはここよ?デイジー母さん」
部屋の奥から聞こえてきた声に、デイジーが激しく反応した。
「ローザ!そこにいるのね?わたし達がどれだけ心配したか分かっている?全くあなたときたら………」
「デイジー」
今にも詰め寄って説教の嵐を浴びせんとする彼女を、グレンが後ろから止めた。
「もういいじゃないか、ローザも見つかったんだし。それに、きみがあれくらいの頃は、周りはもっと心配させられたもんだよ」
とたんにデイジーの動きが止まり、彼女は軽く赤面しながら何事かを呟くと、ため息をついた。
「そうね。何はともあれローザは見つかったんだから、よしとしなきゃいけないわ」 その機を逃さず、ジェイムズは二人に声をかける。
「あんまり長い事戸を開けておくと、部屋が冷えるんだ。二人ともお入り、たいした物はないけれど、食事にしよう」

なけなしの食料で食事を済ませると、ようやくジェイムズは落ち着いて二人を見る時間ができた。グレンは十年前とあまり変わっていない。あえて言えば、髪をきちんと撫で付けるようになった事くらいだろうか?それに比べると、デイジーは随分変わったような気がした。結婚する前から伸ばしていた髪はきちんと結い上げるようになったし、体型も少しぽっちゃりとしたように感じる。そして何より、雰囲気が落ち着いたようだ。
[やっぱり、女は「妻」や「母」になると変わるもんだなぁ]
そこまで考えて、ジェイムズはふとさっきのデイジーのやり取りを思い出した。重ねた年輪による語調や言葉使いの変化はあったが、どうも根っこが変化した様には思えない。そんな雑多な思考を振り払うべく、ジェイムズは三人に尋ねた。
「それにしても、三人ともどうしたんだい?わざわざこんな時にロンドンになんか」
ジェイムズの言う[こんな時]とは、戦争の事である。前の年に開戦したドイツとの戦いはエスカレートを続け、このごろのロンドンは、ドイツ軍の飛行船による爆撃の目標になっているのである。彼からしてみれば、ここよりもずっと平和なフォクスグローブスからわざわざ出てくるのが信じられないのだ。この疑問に、グレンが少し語調を荒げた。
「おれは、止めたんですよ。見送りならフォクスグローブスの駅で充分だったんだ。それなのに、デイジーが」
「見送り?」
予想していなかった単語が登場した為、ジェイムズはつい聞き返してしまった。
「ええ。おれ、イギリス軍の従軍記者になって、大陸に渡るんです」
グレンの言葉は、部屋の空気をぴたりと止めた。数瞬の沈黙の後、何とも答えに窮したジェイムズは、紅茶と共に様々なものを飲み込んで、口を開いた。
「そう、なのか………」
デイジーは、押し黙って下を向いている。一方ローザはと言うと、何も気にしない風で紅茶のおかわりを自分で注いでいた。
「明日船出する貨物船に乗るんですって」
「明日か。随分急なんだな」
ジェイムズの言葉にグレンが頷く。
「なけなしのコネを使ったもんで、時間がなかったんです」
苦笑いを浮かべるグレンを見て、ジェイムズがふ、と息をついた。
「そう言う事なら、今夜は泊まっていくといい。ただし、ベッドは狭いがね」
「ありがとうございます」
「ありがとう、大おじさん」
グレンとローザが同時に礼を言う。その時、デイジーはまだ下を向いたままだった。

重苦しい食事から幾時間かが過ぎて、もう寝床につこうという頃。ジェイムズは自分の部屋のドアがノックされるのを聞いた。
トントン トントン
「ジェムおじさん?まだ起きているかしら」
「………お入り、デイジー」
ドアが開く。ジェイムズは、ランプの明かりを少し強くした。
「何か、用かね?」
「いいえ、別に用と言うほどの事はないんだけれど」
妙にそわそわした目つきをしながら[用はない]と言われても、それを信用できるほどジェイムズは浮世ばなれしていなかった。
「グレンの事かね?」
試しにカマをかけてみると、デイジーは面白いように反応した。
「ええ………そう。あたし、あの人の事を考えるといてもたってもいられないの」
「確かにびっくりしたよ。まさか従軍記者になるなんて言い出すとは思わなかった」
ジェイムズの言葉に、デイジーは力を込めて頷いた。
「おじさんもそう思うでしょ?一体何を考えているのかしら!わざわざ自分から危ない所へなんて………」
「まぁ、昔のデイジーも似たり寄ったりだったがな」
ジェイムズのツッコミに、デイジーはまた頬を赤らめる。
「昔は昔よ。今は、あの人にもわたしにも、あの頃になかったものがあるわ。それに」
「それに?」
言いよどんだデイジーをジェイムズが促す。少しの間を置いて、彼女はゆっくりと口を開いた。
「それに、あの人は[ずっとみんなで一緒にいよう]って、そう言ってくれたのよ?」
「それは、覚えてるよ」
あの日、まばゆい月夜の中でグレンの言葉に驚き喜ぶ子供達を見た事は、ジェイムズにとって忘れられぬ出来事だった。そしてあれから二十年が経ち、彼は戦場に向かわんとしている。それを見送る事しかできなくなったデイジーの心中をおもんばかると、ジェイムズはかけるべき上手い言葉を見つける事ができなかった。
「ねぇ、ジェムおじさん。わたし心配なのよ。ドイツの軍隊は空気に毒をまくそうじゃない?もしそんな事されたら………」
「そんなに心配なら、デイジーには魔法があるじゃないか」
ジェイムズの言葉に、デイジーは悲しそうに首を左右に振った。
「もう、簡単な占いくらいしかできないわ」
「そんな。あんなに上手だったじゃないか!」
ジェイムズは思わず立ち上がる。デイジーは寂しそうな表情で笑った。
「ローザを産んでから、どんどん使えない魔法が増えたわ。そのかわり、あの子はすごい才能を持っているの。きっと一族でも一番の魔法使いになれるわ」
「そんな………」
言葉を失ったジェイムズに、デイジーがすがり付く。
「ねぇ、ジェムおじさん、どうすればいいのかしら?わたしはあの人についていく事はできないし、あの人を守る事ももうできないわ。あの人が行こうとしている所は、この世の地獄なのに、わたしはあの人を止める事もできないのよ………………」
言いながら震えるデイジーを、ジェイムズはしっかりと抱きしめる事しかできなかった。

トントン トントン
ノックの音に、ジェイムズがデイジーを引き離す。
「誰かな?」
「グレンです。その、デイジーがそちらにお邪魔していませんか?」
ジェイムズはデイジーの方を向いて、わざとらしく肩を竦めた。
「ああ、来ているよ。君も入りなさい」
「それじゃあ、失礼します。」
グレンが入ってくると、にわかに部屋の空気に緊張感が増す。その発生源がデイジーである事は明白だった。
「さあ、デイジー。明日は早いんだ。もう寝ないと、体が持たないぞ?」
そう言って差し出されたグレンの手を、デイジーの指が払い除ける。
「早いのは、あなたの都合だわ。グレン」
「何だって?」
デイジーの呟くような言葉を聞き取りきれなかったグレンに、彼女は再び冷ややかな言葉を叩き付けた。
「それはあなたの都合であって、わたしには関係ないって言ってるのよ!」
言葉の激しさに、男達は怯む。そこからいち早く回復したのは、グレンだった。
「きみは、まだそんな事を言うのか?村でもあんなに話し合ったじゃないか!」
「あなたはまたそういう事を言うの?もううんざりだわ!」
ものすごい剣幕に圧倒されっぱなしのジェイムズを見て、グレンは軽く咳払いをすると、彼に向かって語りかけた。
「おじさん。あなたは今の戦争をどう思いますか?」
「え?ああ、その」
突然の質問にまごつくジェイムズを尻目に、グレンは言葉を続ける。
「フォクスグローブスの人々は実感がないかもしれないが、他の街や村はひどいもんだ。終わらない戦争への不安、物資の欠乏、空襲への恐怖、若い働き手の減少!政府の領土拡大の為に民衆がこんなに虐げられていい訳がない!おれは、フォクスグローブの魔法使いや村人に真実を伝えなくちゃならないんです!」
「………だから、なによ」
グレンの言葉の後を追うように、低くうなるようなデイジーの声が響く。
「それがどうしたって言うの!なぜ?だからって、なぜあなたが戦場に行かなくてはいけないの?あなたはフォクスグローブスでもできる筈の仕事を、なぜみんなとの暮らしを捨ててまで大陸に行ってするの?あなたはどうしてフォクスグローブスでの暮らしをそんなにあっさりと捨てて行けるのよ………」
そこまで一息に言って、デイジーはジェイムズのベットに崩れるように腰掛けると、静かにしゃくりあげだした。
「………………」
ジェイムズは、無言だった。一人の男として、グレンの言い分ももっともと思えたし、[フォクスグローブの魔法使い]の一族としてあの村に暮らした者として、デイジーの言い分も痛いほどよく分かった。
[ほんのちょっとの勘違い。多分それだけの事で、二人はこんな喧嘩をしているに違いないんだ]
では、それを解決する為に自分は何を言えばいいのか?彼の思考はさっきからそこで止まっていたのだ。
ロンドンにもう少し長く暮らしていれば、グレンに肩入れした意見を言えただろう。
村にとどまっていたのならば、デイジーと二人でグレンをなじれただろう。
しかし、どちらにも同じ位の間暮らしてきた彼には、一方に肩入れする事はできない。そして、グレンとデイジーの両方を納得させる意見を言う事もまた、言う事ができずにいたのだ。
デイジーはただすすり泣くばかりで、
自分の意見を言い終えたグレンは押し黙るばかり、
そしてかけるべき言葉を失ったジェイムズは呆然と二人を眺めるだけで、
何とも言えない気まずさを秘めた三人の無言は、永遠に続くかと思われた。が、
「みんな、何してるの?」
突然ドアの方からかけられた声に、三人が顔を上げる。そこには、枕を抱えたローザが立っていた。
「だめじゃない、こんな遅くまで起きてちゃ。グレンお父さんは船に乗り遅れるし、デイジー母さんはものすごい顔で見送りする事になるわよ?大おじさんもお仕事があるんでしょ?みんな、早く寝なさい!」
寝ぼけているのか、少々おぼつかない足取りで階段に向かうローザを見て、デイジーとグレンの二人は挨拶もそこそこに、慌てて彼女を追いかける。
誰もいなくなった部屋に残されたジェイムズは、深い深いため息を一つつくと、ランプの明かりを落として、寝床に潜り込んだ。

朝の光の中に飛ぶ水鳥の鳴き声にあわせるように汽笛が鳴っている。そんなロンドン港に停泊した貨物船の一隻の忙しそうに水夫が出入りするタラップの横で、グレンは持っていたトランクを置いて後ろを向いた。
「それじゃ、行ってくるよ。ローザ」
「変な物食べないでね?生水も飲まないように」
「はいはい」
グレンが笑いながらローザの頭を撫でる。ローザは少し飛びすさると、にこやかに笑って手を振った。
「道中、気をつけてな。いや、別に戦場で気を付けるなって言う訳じゃないんだが」
「そうですね。気をつけますよ」
グレンが差し出した手を、ジェイムズは力なく握り返す。心なしか、浮かべた笑いにも力がなかった。そして握手の後、グレンの目が彼の伴侶の方を向く。
「それじゃあ、行ってくるよ。デイジー」
デイジーは別れの言葉に反応しようともしない。グレンは一つ息をつくと、貨物船のタラップに足をかけた。その時
「グレーーン!!」
突然の叫びに驚いて振り向くと、彼の胸元に、まさしく彼の伴侶が飛び込んできた。飛び込みざまに、彼の唇を奪う。
「グレン、グレン!好きよ、大好き!だから………」
「ああ、無事に帰ってくるさ。約束する」
グレンの目を涙で潤んだ瞳で見つめると、デイジーは再び激しいキスを浴びせる。
「あなたにマリアの加護があるように、フォクスグローブで毎日祈っているわ」
「行ってくるよ、デイジー」
最後の抱擁をかわして、二人の体が離れる。グレンがタラップを上りきると、やがて出港の汽笛が鳴り、船はグレンを乗せて静かに海へ滑り出していった。

「大丈夫よ、デイジー母さん」
貨物船が見えなくなる頃、突然ローザが自身たっぷりに母親の手を握った。
「あたしの占いでは、グレン父さんは無事に帰れるって出たわ。あたしの占いの腕、デイジー母さんも知っているでしょ?」
デイジーは静かに微笑んで、何も答えようとはしなかった。

そして翌1916年4月、ジェイムズのもとにグレンからの手紙が届いた。
[………そう言えば、来月の始めから海軍を取材する事になりました。第一巡洋艦戦隊の装甲巡洋艦「ブラック・プリンス」に乗り組みます。6月には、一度ロンドンに戻ろうと思っています………]

………1916年5月31日、第一巡洋艦戦隊に所属する装甲巡洋艦「ブラック・プリンス」は俗に言う「ユトランド海戦」でドイツ艦隊夜襲に失敗。逆に敵巡洋戦艦部隊の反撃を受け、同日深夜、沈没………

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[$Id: longtime.html,v 1.2 2001/11/10 09:10:52 lapis Exp $]