夏の奇跡

Words by 森川蒼一

 全くなんでこんなに暑いんだろう。
 七月の午後。燦々と照りつける太陽は朝からパワー全開で地上に光と熱を降り注いでいた。この頃はずっと照らしてばかりだったから今日は少し弱めてみようかな、なんてあの恒星は思わないのだろうか。
 そんなことを考えつつ、俺はふと左腕にはめている腕時計を見た。13時32分。俺が待ち合わせ場所である駅前の噴水広場に着いたのは12時50分ごろだったから、かれこれ約40分待っていることになる。初夏を通り越して真夏に一歩踏み入れている今の季節にこれだけの時間待ち続けているなんて、俺にとっては奇跡に近い。
「全くこんな日に待たせるなんて。しかも、俺が夏が嫌いなのはよく知ってるくせに。もしかして、あいつ、わざとやってるんじゃないのか?」
 あまりの暑さに思考能力が弱まっているのが自分でも分かる。その証拠に彼女に対してとんでもない難癖をつけていることも。しかし、それを考慮したとしても、この日の気温は異常な程高かった。
 夏なのだから当然という声もあるだろうが、俺にはかなりの苦痛に感じてしまう。もともと冬の方が好きだから、空気が朝から熱を帯びているこの時期はどちらかと言えば苦手なのだ。
 だからこそ、夏の日の待ち合わせには早く来て欲しいと願っていて、その気持ちを正直に伝えているのにも関わらず、彼女はいつも時間に遅れてくる。正確に数えてはいないが、確率はたぶん100%に近い。彼女はそういうタイプの人間なのである。
(お前なぁ、なんで遅れるんだよ)
(う〜ん、自分でも分かんない)
(は?)
(なぜだか分からないけど、気がついたら約束の時間が過ぎてるって感じなの。無意識なのよね。だから、たぶん治らないと思う)
(お前なぁ……)
 俺があきれて次に言う言葉さえも見つからない状態の時、彼女は決まって満面の笑顔でこう答えるのだ。
(何つまらない顔してるの? せっかくのデートなんだからもっと遊ぼうよ!)
 そして、俺の手を取りながら全速力で駆け出す。俺は彼女に引っ張られながらも、その心地良さに身をまかせ、一緒に駆け出していく。不思議だ。出逢ったときから、俺は彼女のペースにはまったままなのである。
 そうなのだ。気がついたら、俺の中で彼女の存在は無視できなくなっていた。去年の冬、あのコートに身を包んだ羽月を見つけた瞬間、その時から既に俺の心の中には羽月が住んでいたのだ。

 暑い。とにかく暑い。
 相変わらず、俺はずっと羽月のことを待ち続けていた。この炎天下の中、噴水の前で約1時間ほど立ち続けているというのも結構しんどいものがある。普通の陽気であるならば華麗な水飛沫に見えるであろうこの噴水も、今はただ単に同じ動きを繰り返している哀れな機械に見えてしまう程だ。
「ったく、いつまで待たせるんだよ」
 俺は小さな声で捨て台詞を吐いた。それは羽月に対してのものだったのだが、俺の体はそうは受け取ってくれなかったらしく、体力の限界に近づいた弱音として聴こえてしまったらしい。その瞬間から、自分の中の体のあちこちから悲鳴らしき痛みが溢れ出した。だんだんと意識が朦朧としていくのを感じる。まるでドラッグを打ったかのように、それは静かにゆっくりと広がっていった。

 虚脱感。
 今の俺の心の状態を一言で表すとすればたぶんこれになるだろう。高校を卒業して、せっかく入った大学が思っていたよりもつまらなかったからである。いやいやながらもやっていたテスト勉強ではなくて、自分が初めて勉強したいと思えた物理学。それをやりたくて物理学部を受験して合格したのに、入学してみたらあまりおもしろくなかったなんて誰が楽しく思えるのだろう。
「こんなはずじゃなかったのに……」
 二言目にはこの言葉が出てしまう。自分でも気を付けているのだけれど、心の奥でそう思っているのだから溜息と共に無意識に口から漏れてしまうのだ。
 だからと言って、今の生活を変えられるほどの実力と勇気を持っているわけではなく、ただひたすら現状の流れを見つめるままだ。そんな自分にまた虚脱感が広がっていく。そして、おもしろくない生活を続けていくだけなのかもしれない。

「……ねぇ、…ねぇってばぁ」
 何か肩を揺らされている感覚がある。自分が今浅い夢を見ていることに気付く。
「ねぇ、いい加減起きてよぉ」
 肩を揺らす間隔が一層大きくなった。俺はすぐに目を覚まし、体を揺らしていた犯人の顔を把握した。
 そこにはキャミソール姿の羽月がいた。
「もうびっくりしたよ。私が来たら、ユキオ立ったまま寝てるんだもん。最初はなんて器用なことしてるんだろうって感心しちゃったけど、よくよく考えるとデートの待ち合わせのときに寝るってのも結構どうかと思うんだ」
 自分が遅れたからだなんてこれっぽっちも考えないのは彼女のいつものクセだ。いや、クセというかなんというか、それが自然なのである。もしかしたら羽月が羽月たる由縁はこんなところにあるのかもしれない。
「ごめんごめん。1時間近く待ち続けたからな。さすがにちょっとは寝るってもんだろう?」
「う〜ん、でもね、女の子が好きな男の子に逢いにくるんだからさ、ちゃんと起きててくれないと」
 急な不意打ちに俺の顔がみるみるうちに赤くなっていく。初めて逢った時から羽月はこんな風に俺に対してストレートに気持ちをぶつけてきていた。最初はいぶかしがっていた俺もだんだんと彼女の素直さに惹かれていったのは事実である。
「お前なぁ、何も公衆の面前でそんなこと言わなくても……」
「あら、いいじゃない。私は私のやりたいことやってるんだから。ユキオに好きだって言いたかったんだもの」
「……ふ〜ん、まぁいいけどな」
 そうは言いつつも、俺は心底嬉しかった。
「で、どこ行こうか?」
 俺は今の嬉しさを彼女に悟られないように言った。
「二人でコーヒーカップ乗ろうって約束したじゃない。だから、遊園地に決定!」
「はいはい、分かりましたよ」
「あ、なんか不満そう」
「別に不満じゃないよ」
「だって、右のまゆがぴくぴくしてるんだもん。そういう時のユキオって、おもしろく思ってないことが多いから」
 鋭い。鋭すぎる。どうやったらそんなことに気付けるんだろう。俺が羽月に対して同じようなことをやれと言われても、きっと一生出来ないのではないかと思う。
「いや、本当に大丈夫だから。遊園地早く行こうぜ」
 まだ疑いの眼差しを向けている羽月の手を取って、俺は目的地へと歩き出した。最初は会話に納得できずにゆっくり歩いていた彼女も、次第にスピードを上げて、二人で小径を駆け出していった。

 ブゥ〜〜〜〜〜〜。
 コーヒーカップの終了を告げるブザーが鳴った。カップが徐々にその回転速度を弱めていく。そして、それは完全に停止した。
 俺と羽月はカップから降りて、退場口から遊園地構内へと向かった。
「本当、楽しかったね」
「……俺は疲れたよ」
 羽月が満面の笑みを浮かべているのに対し、俺は今にも倒れてしまうのではないかと思われた。それはなぜか。羽月がカップを超高速回転させたからである。
「お前なぁ、いくらなんでもあれは回しすぎじゃないのか」
「そうかなぁ。私にはまだ足りない気もするけど」
「ま、まだ回すつもりか……。死ぬぞ………」
 さすがにあれ以上回転させられたら俺の身が持たない。次回からはコーヒーカップだけは一緒に乗るまいと心に決めた。

「とりあえずさぁ、何か飲まない?」
 そう言いながら、羽月は早速財布から小銭を取りだそうとしていた。
「じゃあ、あそこのベンチで。ほら、俺が買うから先に行ってろって。何がいい?」
「え、じゃあ、ウーロン茶。私、先に行ってるね」
 羽月がベンチに向かって歩き出すのを確認してから、俺は近くにあった自動販売機でコーラとウーロン茶の缶ジュースを2本買った。俺は取り出し口から缶を取り出し、彼女の元へ向かった。
「ほらよ、羽月」
 俺はウーロン茶を軽く羽月の方へ投げた。彼女はそれを両手で受けとめると、プルトップを開けて、一口飲んだ。何も言わず俺も羽月の隣に座ると、コーラを一気に飲み干した。  少しの間、二人に沈黙が流れた後、ふと羽月が口を開いた。
「何を悩んでるの……?」
 俺ははっとして、つい羽月の顔を見た。余りにも的確な指摘に正直驚いたからだった。彼女は真っ直ぐな眼差しで俺を見つめていた。
「……別に」
 否定。なぜだか分からないけど、俺はその指摘を認めたくなかった。認めてしまえば、今の状況を変えられずにカラ回りしている自分を肯定してしまうことになるからだった。 「嘘。この頃のユキオ、どこか変だもん。ぼぉ〜っとしてて私が話しかけても聞いてないことが多いし、うまく言えないけど心ここにあらずって感じなんだもん」
「…………」
「ねぇ、何を悩んでるの? 私で良かったら教えて」
 そうだった。羽月は他の誰とも違う。いつでも俺を見つめてくれている。そんな彼女に隠し事なんて意味のないことだったんだ。だって、彼女の方から心のドアにノックしてくるんだから。
「今の俺は……」
 俺が話している間、羽月はずっと黙って聴いていてくれた。

「そうだったんだ」
 羽月はそう言うと、持っていたウーロン茶に口を付けた。
「で、ユキオはどうしたいの?」
「いや、別にどうしたいって訳じゃないんだ。ただ今の状況がおもしろくないっていうか……」
 俺は最後の方の言葉を濁した。それはたぶん自分の気持ちがまだ固まっていなかった証拠だったのだろう。
「だったらいいじゃない。このままの状態で」
 羽月は静かに言葉を続けた。
「ユキオはまだ本当の生活に入っていないだけなんだと思う。もう少しすれば、だんだんと楽しくなってくるわよ」
「そんなこと言ったって入学してからもう4ヶ月も経ってるんだぜ。さすがに大学にも慣れたし、やっと授業の内容に目を向けられるようになってきたんだ。これでつまらないと思ったんだから、今後その気持ちが変わるなんて思えないよ」
「でも、授業に集中できるようになったのはつい最近でしょ?」
「ああ、そうだけど」
「だったら、まだ分からないわ。つまらないって感じたのも、授業のほんの一部分しか見てないのかもしれない」
 頭をガンと殴られたような気がした。なぜ羽月はこんな風に『本当』を見ることが出来るのだろう。
「しかも、今の生活を変えようとは思っていない。それはきっとユキオ自身が現状の向こうにある未来を見つめている証拠じゃないかしら」
 以前もこうやって羽月に助けられたことがあった。そう、彼女と初めて出逢った冬の日の出来事。彼女の言葉、態度、表情一つ一つが俺の心を溶かしていった。
「大丈夫よ。ユキオが自分で選んだ大学だもの。絶対大丈夫」
 羽月は俺を見つめながら言った。
「……ありがとう」
 俺は羽月を抱き寄せた。普段、感情を行動で表すことが少ない俺だったが、今は違う。込み上げてくる想いを止めることは出来なかった。
「ちょ、ちょっと、ユキオ、どうしちゃったの?!」
 最初は動揺していた羽月だったが、しばらくすると肩の力を抜いて、素直に俺の背中に手を回してきた。彼女の腕に込められるしっかりとした力が嬉しかった。
「羽月、ありがとう」
 抱き締められながら彼女はコクンと頷いた。

 どれくらい抱き締め合っていただろうか。
 俺と羽月はどちらからともなく体を離した。その拍子に二人の目が合い、少しの間見つめ合った。すると、なぜかしら同時に笑い合う。恋人との間に絆というものが存在するならば、今の俺達は確かにそれを感じていた。
「行こうか」
 俺は羽月に笑いかけた。
「うん」
「どこにする?」
「じゃあね〜、コーヒーカップ!」
 そう言って羽月は駆け出していく。
「えっ? 嘘だろう?」
 俺はしばし呆然としながらも、彼女の後を追いかけていく。
「嘘じゃないもん。次も高速回転だからね!」
 楽しそうに目的地まで駆けていく羽月の後を追いながら、俺はこの広い世界の中で彼女に出逢えたことを神様に感謝していた。

 その奇跡は色褪せずに俺の心に光を灯すことだろう。
 羽月の笑顔と共に。

fin.

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