静夏

Words : アラスカの荒らし屋

「あの〜、隣いいですか?」
狐は遠慮がちに訪ねた。浩一は読んでいた文庫本から視線を外し、狐に向かって微笑んでみせてから、自分の隣に白いハンカチを置いた。
「有り難うございます」
狐はそう言って、そっと、ハンカチに腰を下ろした。浩一が背もたれにしている大きな樹に、同様に身体を預ける。
「今日も暑いですね」
「そうだね」
短いやり取りの後、浩一は再び文庫本に視線を戻した。狐は、立て膝の上で腕を組み、浩一の少し日に焼けた、線の細い横顔に視線を固定した。木漏れ日が二人を黒と白の斑に染め、蝉の声だけが響く。

三時間後、浩一は文庫本を閉じると、小さく息をついた。天を仰ぎ、木漏れ日に目を細めてから、狐に向き直った。
「そろそろ、みどりさんが来る頃だね」
「そうですね」
狐は、浩一の顔から視線を外さずに答えた。そして、みどりの大きな声を聞いた。

狐と浩一が出会ったのは、1週間ほど前のことだ。

「こちら、倉石浩一くん。私のいとこ。夏休みの間だけ、こっちにいることになったの。浩一くん、こちらおキツネ様。ええと、神様」
みどりの説明はいくら何でも簡潔に過ぎた。浩一は、当然のごとく、声を失っている。
―みどりちゃぁん。私に説明しろって言うの?
狐の乏しい説明能力では、それは無理な注文であろう。救いを求める視線をみどりに向けるが、その表情は愉快犯のそれであった。
―ひ、酷い。
まったく、狐にとって、みどりは悪友という表現がぴったりである。と、
「浩一です」
浩一が右手を狐に差し出し、狐は窮地から救われた。慌てて着物の裾で右の掌を何度か擦り、浩一の手を握ろうとした時、
―うわぁ。
狐は浩一の手の白さに気が付いた。
―女の人みたい。
改めて浩一を観察する。色白の線の細い少年。狐が今まで見たことのないタイプである。長い睫と、どちらかと言えば薄い、淡く赤い唇が印象的な。
「おキツネ様ッ」
みどりの声で狐は我に返る。浩一が困ったような笑顔を浮かべて、右手を差し出したままでいた。
「す、すいません」
頬を染めた狐の声に、みどりの笑い声が重なった。

「でね、やっぱいけないと思うのよ。このままじゃ。おキツネ様もそう思うでしょ?」
質問の形式をとってはいるが、有無を言わさぬみどりの勢いに、狐は頷くしかなかった。浩一が苦笑している。
「ほら。神様もそう言ってるんだしさ。浩一くんも、私を信じてみなさいって」
みどりの声が、常にも増して弾んでいる。
―す、すごいわ。みどりちゃん。
いつものことながら、狐はみどりに圧倒されていた。初対面であるはずの浩一に対して、「軟弱」と明言し、「浩一くん改造計画」をぶちあげてしまうみどりは、それでいて相手に悪印象を与えないという、都合の良い能力の保有者であった。その能力は、浩一に対しても有効であるらしく、
「宜しくお願いします、みどり様」
浩一は、不器用に戯けて答えた。みどりは満足そうに「うんうん」と頷き、暴走気味に一人で思考を進めた。
「まずは日に焼けなくちゃ駄目よね、やっぱ。形から入るのって重要だし。…山崎に頼んで、野球の仲間にでも入れてもらえばいいのかしら。でもいきなりってのも…」
みどりの言葉は限りなく独り言に近くなっていく。そんなみどりを刺激しないように配慮したのだろうか、浩一は、小声で狐に話しかけた。
「おキツネ様、は、この神社の?」
「はい」
狐も同様に、小声で答える。
「一応、ですけどね。てへへ」
謙遜の美徳は獣にも存在するようであった。
「良かった。じゃあ」
と、浩一は少し腰を折り、狐に顔を近づけ、その大きな耳元で、
「そこの大きな樹の陰を、朝方の間だけ、僕に貸して貰えませんか?」
と悪戯っぽく囁いた。
―えっっ。
耳にかかる浩一の息を強烈に感じて、狐は一瞬、ビクリ、と動きを止め、その後、
「は、はい。おっけいです。おっけい」
と、何とか答えた。
「良かった」
浩一は、狐の耳元で囁き続ける。
「浩一くん改造計画もいいんですけど、静かに本を読む時間も欲しいもので」
「そ、それです」
狐の返答は、返答になっていなかったが、浩一はそんなことは気にもとめない風で、
「宜しくお願いします」
と言って、狐の耳に刺激を与える事をやめた。狐の耳が痺れていた。甘い痺れ。その感覚だけに意識が集中してしまう。
「よーし、決定!」
大きな声と共に、みどりが膝を叩いて立ち上がるのに、狐は気が付かなかった。

「野球やるよ〜」
みどりが大きく手を振っている。浩一は立ち上がることでそれに返答し、狐に向かって右手を差し出した。
「行こう」
狐がその手を取ると、浩一がそれを引き上げる。
「今日は頑張らないと、みどりさんに怒られてしまうからね」
「そうかもしれませんね。応援してますから、頑張って下さい」
狐は答えた。

みどりが狐に浩一を紹介し、「浩一くん改造計画」が一方的に立ち上がった翌日、朝八時を少しまわった頃に、文庫本を持った浩一は、狐の神社に姿を現した。そして、社の中からこっそりと様子を窺う狐には気付かない様子で、先日言及した大きな樹の下に腰を下ろし、幹に背を預け、片膝を立てて読書をはじめた。狐は、読書の邪魔になりはしないかとさんざん迷った末に、しかし、ちょこちょこと浩一に駆け寄っていった。
「おはようございます、浩一さん」
浩一は文庫本から視線を外すと、
「おはようございます。借りてます、おキツネ様」
と答え、再び読書に没頭した。しかし、狐は、その場に立ち尽くしていた。熱っぽい視線で文庫本に集中している、白く繊細な浩一の横顔から、目を離せなかったからだ。ずっと眺めていたい、と思う。不自然なその欲求を、狐は抑えようとはしなかった。
「あの〜」
遠慮がちにそう言い、人差し指で浩一の横を指し示す。いささか作為的な、極上の笑みを浮かべて。浩一は、暫くその極上の笑みを眺め、次いで狐の指し示す先に目をやると、自分の隣に白いハンカチを置き、
「どうぞ」
大袈裟な手の動きを交えて言った。
「有り難うございます」
そう答え、狐はハンカチにゆっくりと腰を下ろした。例えばみどりなどが、見たこともないような表情を浮かべて。

それが最初であった。

浩一は、今日の試合で一本のヒットを打った。みどりは満足げにピースサインを浩一に送り、狐の声援は嬌声に変わった。

狐の目には、今日の浩一は、常とは異なり、読書に集中できないでいるように見えた。そして、その理由も解っていた。浩一の心情は、狐が今まで専門に扱ってきたものと同様であったから。けれども狐は、自分から何かを言おうとは思わなかった。今までと全く同じように、立て膝の上に腕を組み、今までと少し違う、浩一の横顔に視線を固定していた。これからの展開が、今までとは全く異なるであろう事は知っていたけれども。

暫くして、浩一は文庫本を閉じた。すっきりとしない表情で下を向き、軽くため息をついた後、狐に顔を向ける。
「ちょっと、いいかな?」
狐は視線を動かさなかった。表情も変えず、唇だけを動かした。
「はい」
「昨日の、助っ人の先生の事なんだけど」
「はい」
狐は唇だけを動かし続けた。驚いてはいなかった。ただ、感じていた。何かが変わっていく、もう戻らない、そんな感覚を。しかし、浩一は続けた。浩一の目には、狐は、ただ映っているというに過ぎなかったから。
「みどりさんは…あの先生を…」
「はい」
狐の答えは相変わらず簡潔であった。浩一は結論を自分で導いているはずであり、狐は多くを語りたくはなかったから。
「それは、好きとか、憧れてるとか…」
「はい」
「そうか…」
浩一はそれきり口を閉じた。膝の間に顔を埋める。狐は、視線を動かさなかった。その視線の先には、もう浩一の横顔はなかったけれども、立て膝の上に腕を組んだまま、浩一の横顔があったはずの場所に、視線を固定していた。木漏れ日が二人を黒と白の斑に染め、蝉の声だけが響く。

ずっと前から、狐は、みどりの幼い恋を知っていた。しかし、浩一に伝えようとは思わなかった。なぜなら、訊かれなかったからだ。恋の神様は、常にそういうスタンスであるべきであったし、これまでもずっとそうしてきた。これからもずっとそうしていくだろう。何も特別ではなかった。

「野球やるよ〜」
みどりの大きな声が聞こえた。一瞬の後、浩一は、膝の間に埋めていた顔を上げた。少しだけ唇を噛んだ後、狐に顔を向け、
「ごめん。変なことを話しちゃって」
そう言って、浩一は無理に微笑んだ。
「いいえ。気にしないで下さい」
そう答えて、狐も無理に微笑んだ。
「有り難う」
浩一は立ち上がった。いつものように、狐に右手を差し出す。狐もまた、いつものようにその手を取ると、唇を動かした。
「頑張って下さいね」

翌日も、浩一は今まで通りの時間に、神社に姿を現した。しかし、あの大きな樹に背を預け、文庫本を手にする浩一の傍らには、立て膝の上に腕を組んだ、少し風変わりな少女の姿はなかった。

表面上、浩一は何事もなかったように、読書に集中していた。

狐はと言えば、社の中で、うずくまっているだけだった。何をするでもなく、ただ一点を見つめて。

夏の日は相変わらず濃厚で、蝉の声は神経に障った。

夏は終わろうとしていた。夕焼けが闇に浸食されようとする頃、常と変わらず、狐は社の中で一人だった。

「おキツネ様」
控え目な浩一の声が聞こえた。そんなことは初めてであったから、当然狐は驚いたが、取り乱すことはなかった。浩一の声が続く。
「ちょっといいかな?」
狐は、黙って社の扉を開けた。そして、
「どうしたんですか?」
と、努めて明るく笑って言った。

狐と浩一は、いつもの大きな樹に、いつものように背を預けていた。いつもと異なるのは、夏の日が既に暮れていることと、二人の視線が前方の暮色に据えられていることだ。
「明日、帰るからさ」
浩一が沈黙を破った。そのまま続ける。
「ほら、この頃、ゆっくり話す機会ってなかったから、最後に、ゆっくり話して、お別れと、それと、お礼を言いたいと思って」
「でも…毎日応援に行ってましたけど…野球」
狐は白々しいことを言った。
「うん。そうなんだけど、何か、話す機会無かったし、それに」
そこで、浩一は少し言い淀んだが、結局は続けた。
「避けられてるみたいだったし」
「そんなこと」
「いいんだ。下らない話をしてしまったから、僕が」
「そんなことないです!」
珍しく、狐は強い口調で言った。少し驚いて、浩一は口を閉ざした。短い沈黙が二人を包んだ。

「そんなこと、ないです」
今度は狐が、沈黙を破った。そのまま続ける。
「そんかことないです。浩一さんが、みどりちゃんに抱く感情は、とっても、大切だと思います。だから、悪いのは」
「おキツネ様」
浩一が控え目に遮った。
「どちらが悪いのか、って事を話したくはないんだ」
狐は、虚空から視線を外し、浩一を見た。浩一は、黒に侵されつつある暮色を瞳に映したまま、言葉を続けた。
「話したいのは、そうだな、この夏、僕がとても楽しくて、充実した日々を送ったって事と、そうした事が、おキツネ様のお陰だってことと、それに対するお礼」
「でも私、特に何も」
狐は言った。少なくとも、神様として見れば、それは事実であった。浩一は笑った。如何にも彼らしく、声を立てずに、軽く。
「そんなことないよ」
そう言って、浩一は目を閉じた。大きな樹に、今まで以上に、体重を預け、
「楽しかったんだ。有り難う」
と呟いた。二人が出会った頃に比べ、浩一の顔はかなり日に焼けており、線の細い印象も大分薄れていた。狐は、そんな浩一の横顔から目を離せなかった。口を閉ざした浩一の顔に、狐の顔が近づく。

乾いた唇が、微かに触れた。それ以上、狐は動くことが出来なかった。全ての神経が唇に集中してしまっているはずなのに、風と、蝉とは違う虫の声と、乾いた草の感触が、やけに鮮やかに感じられた。

「おまじないです」
唇を離して、狐が言った。
「浩一さんの恋が、幸せの種になりますように」
浩一は目を開き、ほんの少し、視線を狐に向けながら言った。
「そうだね、そうなるといいね」
ふいに、狐は泣き出したくなった。唇が、鮮明に感触を記憶していた。だから狐は悲しくなった。涙が出そうだった。
「さよなら」
そんな浩一の声が、何処か遠くで聞こえた。

(終)

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