君は遠い宙の星
Words by 関 隼
「…… ただいま」
特急のホームを包む喧燥に負けずに鼓膜に直接響く、彼女の声。この心地よさを感じたのは、何ヶ月ぶりだろうか?
「お帰り。二ヶ月…… ぶりかな?」
「三ヶ月よ、森くん」
冷静な顔で荷物を持ち直しながら、彼女が訂正する。照れくさそうに頭をかきながら、森くんと呼ばれた男〜今井 森〜はすばやく手を伸ばして彼女の荷物を持った。
「とにかく、久しぶりだ。…… 荷物持つよ、花音」
荷物から、何か離れがたい引力でも働いているかのごとく手で空をつかみながら、花音と呼ばれた彼女〜汐崎 花音〜は静かに頷いた。
「…… うん。ありがとう」
★
広い構内を渡って環状線に乗り換えてから、森は荷物を網棚に載せつつ、花音に尋ねる。
「いつまでこっちにいられるんだ?」
「長くて一週間、かな」
曇り空に沈むビル街をもの珍しげに眺めながら、花音が答える。
「長くてって、どういうことだよ」
腰を下ろしながら、不吉な予感を彼女の言葉尻にとらえた森に暗い影がさした。
「野辺山が晴れたら、帰らなくちゃならないの。まだ実験が終わってないのに、教官に無理を言って出てきたから」
「そう、か」
相変わらずな花音の言葉に、森は言葉を荒げる気にもなれず、うなだれる。それを見ようともせずに、花音は言葉を続けた。
「大丈夫よ、天気予報ではこの一週間は崩れたままだって言っていたわ」
森は、澄ましてそんな事を言う花音の横顔をまじまじと見つめる。
【そんな事言って、その通りになった事なんかないぜ】
そんな言葉が喉仏の辺りまで上ってきたが、彼の舌に乗る事はなかった。
「なら、天気予報を信じてみるか」
心にもない事が、彼の真意を隠蔽する。
「それで、宿はどうするんだ?」
「お世話になっても、いいかしら?」
軽く首を傾けて、花音が森の顔をのぞきこむ。
「構わないけどさ…… たまには母親に顔、見せといた方がいいんじゃないのか?」
森の言葉に、花音はかぶりを振った。
「だめよ。東京に来ている事、お母さんには言ってないの」
「え? じゃあ、その……」
その先を言葉にするのは、電車の中と言う場所柄から少々はばかられた。つまり彼女は、最初から森の部屋に泊まりこむつもりで帰ってきたのだ。
【相変わらずだな】
こんな風に花音が時々見せる情熱的な行動を見ると、森は何となく安心する。それは多分、花音が出会った時から変節しているわけではない事を確認できるからなのだろう。
『次は〜、池袋〜、池袋です。埼京線……』
車掌のだみ声が、二人に乗り換えを告げる。森は一足先に立ち上がり、花音の荷物を網棚から降ろすと、開いている方の手をさしだした。
「それじゃ、おいで、花音」
自然とほころぶ森の顔を見ながら、花音は彼の手を握った。
「お世話に、なります」
★
電車を乗り換えて十五分。閑静な住宅地の広がる駅で降りた二人は、大きな公園への道すがらにある森の下宿にたどり着いていた。二階建ての一階が、彼の部屋である。
「お邪魔します」
無言で鍵を開け、部屋に入った森の後に続いて、花音がおずおずと部屋に入る。
「何回も来てるんだから、そんなに堅苦しくなるなよ」
「でも、一応他人の家だから」
雨の降るなか、傘もささずに走って人の家に飛び込んだ女の言う言葉ではないとも思ったが、森はそれを口には出さず、少々雑然とした部屋の中に荷物の置き場所をしつらえてやった。
「まあ、荷物はここにでも置いて、ゆっくりしてってくれよ」
「わかったわ」
花音は荷物を指定された場所に置くと、何やらごそごそと中身を探りはじめた。彼女の周囲以外は雑然とした部屋については、特に意識していない様である。
『やっぱさぁ、女は部屋来た時に掃除してくれるくらいじゃないと、イヤじゃん?』
台所に立って茶など用意する森の脳裏に、数日前の友人の言葉がよぎる。彼は熱烈に言い寄ってきた女性を袖にした理由をそう説明したのだ。
『なに? オマエん所もやってくんないの? やめとけやめとけ。イヤにならない内に別れちまった方がいいぜ?』
花音の事を森が説明すると、そんな事まで言っていた事も、はっきり覚えている。その言葉を聞いて、森は別れる決意は論外だとしても自分の心の中にわずかに揺らぐものを見つけていた。
「ほら花音、お茶」
そんな事を考えているとはおくびにも出さず、森は盆にのせたコーヒーを花音にさしだ…… そうとした時、花音が静かに言った。
「わたし、コーヒー飲めないの。覚えてない?」
「…… ……」
ここまで来て素直に謝る訳にも行かず、森はコーヒーを持ったまま台所に取って返すと、再びお茶をいれなおす。数分後、彼の持った盆には冷えた玄米茶入りの湯飲みが二つのっていた。
「…… はい、花音。玄米茶。冷やしたのが好きだったよな?」
花音は湯飲みを受け取って中身を確認した後、かすかに微笑んだ。
「ありがとう。好み、覚えててくれたのね」
それだけ言ってから湯飲みに口をつけ、静かに玄米茶を飲む。森はつきあいで湯飲みに口をつけながら、冷やした玄米茶の持つ独特の香ばしさに内心辟易していた。
★
「なあ、夕飯はどうする?」
そろそろ陽も完全に沈もうとする宵の口、森は花音をまだ少し暑い下宿の外に連れ出してそんな事を尋ねた。
「そうね。どうしましょうか?」
花音としても決めかねているようで、明確な提案が出てこない。ここを好機と見た森は、緊張に少し声を震わせながら駅へ続く道を指さした。
「それなら、駅前になかなかのフレンチを食わせる店があるんだ。どう?」
(駅前)という単語を聞いたせいか、花音の表情にかすかな不満の色があらわれる。
「…… ここに来る途中に、小料理屋さんがあったわ。そこにしない?」
「ええ? あそこかぁ」
花音の言っている小料理屋には、森も良く通っていた。ただ酒とつまみを出すだけではなく、定食形式の料理も出す店で、味も悪くない。だが、森にしてみれば久しぶりの恋人との時間である。そんな普段着の店に入るのは、何と言うか悔しい感じがした。が、花音の決意は割合と固そうである。
「… わかった。それじゃ、行こうか」
言い争うのも馬鹿らしいので、森は自分から折れる。先導するように少し先に立って歩き出すと、せめてもの雰囲気作りに彼女の手を握った。
「あ」
花音の口から漏れた音に、森の動きがぴたりと止まった。
「悪い。イヤだった?」
顔色をうかがうように彼女の顔をのぞきこむ。しかし、それと同時にうつむかれてしまい、表情を見る事はできなかった。
「…… ううん、そうじゃないの」
聞き取れるかどうかギリギリのささやき声で、花音は森の質問を否定した。
「ちょっと、びっくりしただけなの。嫌じゃ… ないわ」
「そっか。じゃ、行こう」
一安心した森が、軽く彼女の手を引っ張る。それに合わせて歩き出した花音の顔がかすかに火照っている事を、彼は気づかなかった。
「お待ちどうさま」
柔和な表情で微笑む女将の手から、盆を受け取る。それを目の前に並べてから、二人は同時に言った。
『いただきます』
カウンターの他にテーブル席を三つばかり備えたこの店で、二人は一番奥まった席に陣取り、冷や酒と少々のつまみを頼んで定食の来るのを待っていた。既に冷や酒の入った徳利は三分の二ほど空いている。
「おいしい」
ご飯を一口、それから焼魚を一口食べて、花音が微笑んだ。
「だろ? ここは、これが一番おすすめなんだよ」
魚が日替わりで替わる焼魚定食をすすめたのは、森だった。自分も同じ定食の味噌汁に箸をつける。
「野辺山だと、おいしいお魚を食べるのに苦労するから、うれしいわ」
女将が自分で漬けていると言う糠漬けの胡瓜を口に入れ、花音はまた微笑んだ。
「おいしい」
「あらあら、そんなに誉めていただけると、照れてしまいますよ」
カウンターで煮物の味付けを確かめていた女将が照れ隠しの笑い声を上げた。まだ二人以外に客のいない所為で、話し声が良く聞こえるようだが、女将はそれ以上こちらに話し掛けてこようとはしない。若い二人を微笑ましく見ているのだろうか? 何にしても森はありがたいと思った。
「ほら花音、もう一杯」
「ありがとう」
森が徳利を差し出したのに合わせて、花音は両手で杯を持つ。注がれた冷や酒を静かに飲み干すと、ほんの少し顔を上気させて
「お酒もおいしいわ」
と微笑んだ。恋人の笑顔をたくさん見た所為か、森の顔も自然とほころぶ。
【こんな顔が見れるんなら、こういう店でも悪くないな……】
無理に自分の意見を通さなかった事をラッキーに思いながら、森も杯を空ける。興奮しているせいか、いつもより酒に敏感な反応をしているようだ。体温が上昇する感覚を覚えながら、森は花音と差し向かいの食事を更に楽しんだ。
★
「涼しい」
会計を済ませ、店を出た森が見たものは、気持ちよさそうに目を閉じてたたずむ花音の姿だった。彼女の言葉に、彼はやっと周りに何が起きているかを実感した。
「ああ、夜風が少し強いな」
森には少し生ぬるく感じられる風が二人の間を通りすぎる。酒で上気した花音には涼しく感じられるのだろうが、彼にしてみれば
【明日は、雨かもな】
などと言う思いを巡らすものでしかなかった。と、不意に花音が口を開く。
「明日……」
「ん?」
森は促すように花音の方を見た。
「明日は、どこかに行かない?」
「どこかって?」
森は質問に質問を返す。花音が自分からこんな事を言い出した事に、少なからず驚いていたのだ。
「わたし達、なかなか二人で会えないじゃない。だから、明日くらいは二人で出歩くのも悪くないなって、思ったの」
興奮と酒が背中を押しているのか、花音は普段よりも明らかに饒舌になっている。そんな彼女を少し微笑ましく思いながら、森は静かに頷いた。
「いいよ。明日晴れたら、二人で出かけよう」
「ありがとう」
それきり会話もせず、二人は静かに下宿への道を歩いた。森はその道すがら、心のどこかで明日は雨が降る事を願っていた。
★
ざああああああ………………
翌朝、目覚ましにおこされた森がまず聞いたのは何とも激しく降る雨の音だった。
「ああ……」
【こりゃ、やみそうにないな】
寝間着のまま花音に会うのも恥ずかしいのでのろのろと着替え、洗顔の為に彼が部屋を出ると、冷房の除湿が効いた居間で、猫の額ほどの庭に面した窓の傍に花音が佇んでいた。
「おはよう」
寝間着のままの花音に少しどきどきしながら、森が声をかける。
「おはよう」
こちらの声に一応の反応は返すが、彼女の心はここには無いようだった。
【ま、しょうがない】
少し肩など竦めつつ、森は狭苦しい洗面所で顔を洗う。再び居間に戻ってきた彼は、花音がまだ窓の傍にいるのを見た。
「…………」
無言で窓の外を見つめ続ける彼女を見て、森はため息をついた。
【よく飽きないよな……】
緊張と退屈が入り交じった微妙な空気に耐え切れず、森は台所に立って熱い玄米茶をいれた。熱さに耐えながら湯飲みの縁近くをつかみ、花音の目の前をさえぎるように湯飲みを突き出す。
「ほら、お茶。ドライかけっぱなしで寒いだろうから、熱くしといたぞ」
声をかけられてから数秒の後、花音はやっと森の方を見た。
「あ、り… がとう」
急に我に返ったように妙なテンポで礼を言うと、花音は熱さを確かめるように両手で湯飲みを包み込むように持った。ふーふーと息で熱さを散らし、一口すすりこむ。
ずずっ
「熱い」
「だからそう言ったじゃないか。気をつけろよ」
そんな事を言いながらつきあいで茶をすすって、森が顔をしかめる。確かに、少し熱くしすぎたかもしれない。
【俺も気をつけないとな】
「この雨じゃ出かけるのも大変だな。どうする?」
窓の外に首を巡らしながら、森が尋ねる。花音は少し下を向いて、質問に答えようとしなかった。わずかに伺える表情は、「失望」に満ちているように思える。
【そんなに楽しみ…… だったのかよ】
花音にどういう意図があったのかを計る事はできなかったが、森にしてみればこんなに沈んだ彼女を元気付けないのは、犯罪のような気がしてたまらなかった。
「森くん、わたしね」
「とりあえず、食うものがないんだ。ひとっ走り買ってくるよ」
重苦しい空気を換えるべく、森は花音の言葉を遮って立ち上がった。寝室から財布を引っつかんでくると、柄にもなくウインクなどしてみる。
「朝飯食ったら、二人で遊ぼう。たまには部屋ん中で遊ぶのも、悪くないだろ?」
★
コンビニで買ったやくたいも無い食事の後、森は彼女の前に山を積み上げた。
「森くん、これは?」
「まあ、見ての通りゲームだよ。何がいい? タチの悪い友達が置いてくんだけど、こんな風に役立つとは思わなかったな」
各種カードゲームにテレビゲームとハード、見ればボードゲームまで置いてある。花音はぽかんとした表情でその山を見つめる。
「どうした? 花音は何がやってみたい?」
「わたし……」
「ん?」
勢い込んで先を促す森の問いに対して、花音の答えは腰砕けもいい所だった。
「どれも見た事ないの。何がいいか、決められないわ」
森の心の中で、彼の頭に金属製のタライが落ちてきた。
【そりゃないぜ〜】
「ホントに見た事ないのか? よく探してみなよ」
「うん……」
食い下がる森の迫力に負けて、花音がおずおずと山の中身を漁りはじめる。
【テレビゲームの経験くらいあるかと思ったんだけどな。さすが花音、侮りがたい】
そんな事を森が考えている間に、花音は何かを見つけたようだった。
「あ。これなら、やった事があるわ」
「え? どれだい?」
彼女が指さした箱を見ても、森はそれが何なのか思い出せなかった。よく見ると、飾り気の無い濃緑の薄い箱には銀箔押しの文字が記されている。
《Domino》
「何だっけ?」
「ドミノ倒しのドミノよ。もとはちゃんとしたゲームなの」
と言われても、森はやった覚えも無いゲームを指名されて困惑していた。
「これのやり方、知らないんだけど……」
「大丈夫、わたしが教えてあげるわ。これをやりましょ」
軽く微笑む花音の顔を見ると、反対する気も雲散霧消する。数秒の葛藤もあったような気がするのだが、気がつけば森は彼女に頭を下げていた。
「よろしくご教授下さい。花音先生」
少しおどけた森の口調に、花音はくすくすと笑いを漏らす。
「わかりました。それじゃ基本的な所から……」
こうして、二人の午前中はドミノに興じる事でつぶれる事となった。
しばらくの後、花音の最後の手牌が場に置かれた。
「はい、上がり」
「ちぇっ! また負けか」
少し面白くない表情の森を見て、花音は少し寂しげな表情を見せた。
「二人でやると、自分の持っていない牌が相手にあるから、しょうがないわ」
後に続く言葉が、二人の空気を一瞬重苦しいものに換える。
「お母さんとやる時も、そうだった」
「……」
森は言葉もなく、ただ彼女の顔を見る事しかできなかった。少し複雑な家庭環境、親しい人間を最小限しか作らなかった花音。母と二人でドミノをやる時、花音が似たような事を考えた事がないとは、決して言い切れない。
「今度やる時は、三人…… できれば四人でやろうな」
突然の森の言葉にうつむいていた花音が彼の顔を探す。見れば、彼は台所に向かうように立ちあがり、彼女に背を向けていた。
「お茶、いれるよ。本でも読まないか?」
ほのかに温かい彼の言葉に、花音は彼に見えないと分かっていながら静かに頷いた。
「うん」
「よし、ちょっと待ってな」
台所に立つ森の背中を、花音はじっと見つめていた。
★
ざああああ…………
雨はまだやむ気配もない。二人は黙って本を読んでいた。たまにお互いの前に置かれた冷やし玄米茶をすすり、ページを繰る。そして、雨の音。それ以外に音の無い空間で、森は自分の中に「幸福」の二文字が膨れ上がるのを感じていた。
【いいよな、こういうの】
何と言う事のない時間が、無性にうれしかった。今、確かに花音は自分の傍にいて、自分は花音の傍にいる。お互いが相手を独占している感覚が、彼の心に幸福感を与えていた。が、花音の方はというと……
「退屈、ね」
何と言うか、場の空気を打ち壊すような事を言ってくれていた。
「そ、そうかな?」
無理矢理にも幸福感を持続させようと、森が必死の抵抗を試みる。
「ええ。雨も止まないし……」
「そ、そうだね」
口調がぎこちない事が、自分でも分かる。だが、自分の幸せを護る事を誰が止められるだろうか?
「森くん。おなか、すかない?」
「え?」
突然の質問に、森が再びうろたえる。確かに昼食をとっていないわけだから、意識をそこに向けると、空腹である事が分かる。
「わたし、おなかすいたわ。早めにお夕飯にするのは、どうかしら」
「あ、ああ……」
花音の提案は、体にとって魅力的である。だがしかし、それだけの為に今の幸福を捨て去る事ができるだろうか? 葛藤は、短くも深かった。
「ほら、雨が小降りになってきたわ。行きましょうよ」
計ったように、花音が最後通牒を突きつける。いかに葛藤が深くとも、ここまで来て森が断れるわけは、なかった。
「わかった。それじゃ…… 行こうか」
★
「おいしかった」
小降りになった時を狙って外に出た二人は、結局昨日の小料理屋に再び入って、早めの夕食をとった。二日連続で同じ店に入ったと言うのに、花音は満足げな顔で焼魚をつついていた。
「それじゃ、行こうか」
会計を済ませ、傘を掲げながら外に出る。と、そこに雨粒はなかった。
「あ……」
「雨、やんだね」
見れば雲もあらかた消え、街灯の少ない路上からははっきりと月を見る事ができた。
「久しぶりだな、月なんか見たの」
「そう? わたしは毎晩どころか、昼でも見てる時があるわ」
「そりゃあ、天文やってんだから」
苦笑する森を見て微笑んだ花音は、ついと顔を上げ、首を巡らす。
「でも……」
「ん?」
花音は目を閉じて、ため息をついた。
「やっぱり、こっちは星が見えないわね」
「そうかな?」
森にしてみれば実感はなかったが、花音はわずかに首を左右に振った。
「ええ。やっぱり光害が激しいのかしら」
「やっぱり、満天の星空が好き?」
残念そうな花音の顔を見ていると、森の口からはそんな質問が滑り出る。その言葉に、花音は当然といった感じで頷いた。
「そういう所で育ったから。それに……」
花音が少し顔をしかめる。
「こんなに星が少ないと、気持ち悪くない? 願をかけても、御利益がなさそうだし」
そう言いながら、彼女は森の顔を見る。しかし、森はそれに答えなかった。
「ちょっと、寄って行かないか?」
そう言いながら彼の指さした先には、酒屋が経営するコンビニエンスストアがあった。
「どうしたの?」
「いや、ちょっと買いたい物があるんだ」
曖昧な言い方しかしない森に、それでも花音は頷いた。
「いいわ、行きましょ」
そう言って、すたすたと店先に歩いていく。その後にぶらぶらと続きながら、森は内心で先刻の質問に答えていた。
【俺は、逆なんだ。花音】
目を閉じなくても、あの月見で見た夜空が目の前に広がるのを感じる。あの時、森は花音から目が離せなかった。そして、夜空をまともに見ようとはしなかった。もちろん、その後で見たプラネタリウムでもだ。もちろん、花音に惹かれている言うのもあった。だが、それだけではなかったのだ。
【俺にとっては、満天の星空が怖い。そこに吸い込まれそうな、月と満天の星が、気持ち悪いんだ…………】
コンビニの店内で、目当ての商品を探す森の心は、なぜか重苦しい何かに包まれていた。
★
「わたし、浴衣持ってないわ」
コンビニからの帰り道、花音は突然そんな事を言い出した。
「何だよ? 急に」
「だって、花火っていうと、浴衣じゃない?」
ぷぷっ
真面目な顔でそんな事を言われると、森としては吹き出さざるを得ない。
「そんな事ないって! 別に普段着で構わないんだよ」
「そうかしら?」
まだ納得がいっていない表情の花音の手をつかみ、森は軽く彼女を引っ張った。
「大丈夫! まずは楽しむ事が先決。そうだろ?」
そう言って、コンビニで買った花火セットを掲げてみせる森に、花音はようやく頷いた。
「そう、ね。わたしもそう思うわ」
「よし、それじゃ急いで帰ろう!」
空回り寸前の元気を引きずり出して、森はまた花音の手を引っ張った。
じじじじじじじじじじ………………
花火をやる、とは言っても、場所は森の下宿にある猫の額ほどの庭である。当然派手なロケットや打ち上げをやる事ははばかられてしまう。と、言う事で二人はセットの中から線香花火だけを抜き出し、ささやかで静かな花火大会を開いていた。
「綺麗……」
目の前の光景に魅せられた花音の表情は、森にとって花火よりも強烈な光だった。
【バカ、落ち着けよ】
高鳴る心臓の音にうろたえながらも、何とか平静を保つ事に成功した森は、もう一本の線香花火に火をつけ、花音に渡した。
「ほら、花音」
「ありがとう」
上の空ながらに礼を言い、彼女は自分の持つ花火を見つめる。まるで花火に吸い込まれそうな花音を見ていると、森は自分の心がざわめくのを感じていた。
【なんだ、この感じは】
自分でも説明のつかない感情が、自分の中に渦巻いている。花音との一時を邪魔する無粋な心に、森は内心舌打ちしていた。
【邪魔するなよ、せっかくいい所なんだから】
そんな事を思いながら、彼は自分の注意を花音に引き戻すべく、彼女に話しかけた。
「なあ、花音……」
そこまで言いかけて、顔を上げた彼が見たのは、花火を見ていない。かといってこちらを見ていない。網戸のかかった部屋の中をのぞきこむように見ている花音だった。
「か、のん?」
もう一度呼びかけた時に、彼は彼女が注目している物に気づいた。彼女は部屋の中の、点けっぱなしにしたテレビに見入っていた。遠目から見た映像はよく分からなかったが、音声は聞こえてきた。
「『これにより月実験都市は、新たなる段階に突入した』とコメントを発表しました。NASAでは、プロジェクトを第二段階に進めると共に………………」
★
釈然としない心を抱えたまま、森は寝間着代わりのTシャツと短パンに着替える。歯磨きの為に居間に出てきた時、テレビは天気予報を映し出していた。
「明日の関東地方は、晴れ。降水確率は午前、午後友に0%でしょう……」
二人の間に、一瞬緊張が走る。あえて何も言わずに、森は洗面所に入った。
【0%、か】
歯を磨きながら、予報を反芻する。そして、彼女が返ってきた日の言葉を思い出した。
『野辺山が晴れたら、帰らなくちゃならないの』
つまり、予報が外れない限り彼女は明日の朝には帰らなくてはならない。その事を考えても、森の胸の痛みは少なかった。
【まあ、こんなもんだろう】
いや、むしろよくもったとも言える。とにかく、二人でいる事を満喫できる時間が二日あったのだ。
【遠恋やってる奴は、半年ぶりに半日だけ会う。なんて言うしな】
それに比べれば、何倍もましというものだ。そう結論づけながら、森は口をゆすいだ。
居間を通り、寝室に入る寸前、森は布団の準備をする花音の方を向いた。
「それじゃ花音、おやすみ」
彼に背中を向けて布団を広げていた花音が、振り向く。
「おやすみ、森くん」
それを聞くと、森は頷きながら寝室に入っていった。
翌朝、森をおこしたのは目覚ましではなく、花音の声だった。
「森くん…… 森くん」
「あ、ああ………… かのん、か」
彼女が次に言う言葉を承知している森は、わざと寝ぼけたふりをする。
「晴れてるから、わたし帰らなくちゃいけないの」
「ああ、そう……」
あくまでも寝ぼけたふりを続ける森に聞こえないように、花音は小さくため息をついた。
「今度いつ来れるかわからないけど、来る時に連絡するわ」
「ああ……」
のれんに腕押しの森に背を向けて、花音が部屋の扉を開ける。
「それじゃ、さよなら」
パタンと音がして、扉が閉まる。少し経って、遠くに金属製の扉の音が聞こえてくる頃、森は再び眠りの中へ落ちていこうとしていた。
『わたし帰らなくちゃいけないの』
『さよなら』
頭の中で、二つの言葉がぐるぐると回る。やがて二つの言葉が融けてバターのようになる頃、森は涙を流しながら静かに寝息を立てていた。
★
再び目が覚めた時、森が窓から見た外は、夕闇に包まれていた。のろのろと着替えると、身だしなみを整えもせずにすきっ腹を抱えて、部屋を出る。花音と二日続けて行ったせいか、あの小料理屋に行く気分ではなかった。
【…………】
仕方なしにコンビニに寄り、適当にパンとおにぎりをつかむ。一緒にミネラルウオーターを買って外に出ると、ごみ箱の置いてある路上で、森は水で流しこむように買った物を貪った。
【…………!】
残った屑をごみ箱に叩き込むと、彼はふと闇に沈んだ空を見上げた。街灯の明かりに負けない程の白い光をたたえて、月が彼の目の前に鎮座している。
【ちぇっ!】
顔をしかめた森が月に背を向けるように方向転換すると、そこには光害のせいか弱々しい光を放つ星が片手の指ほどしかない夜空がある。それを見た時、彼は言い知れぬ安堵感が沸き上がるのを感じていた。自分でも知らない内に、唇が言葉を紡ぐ。
「…… 東京の」
意識もせずに、彼の足が二歩、三歩と体を前に運ぶ。
「ろくに見えない星なら……」
ズボンのポケットにつっこんでいた手が、汗をかくほど握り締められていた。
「俺の願いも…… 叶うかな……」
言いきった瞬間、彼の首が強く左右に動く。今まで背を向けていた月の方に向き直ると、森は思い切り走り出していた。
(了)
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