書き損じの葉書 from T to T

  1. 結局自分は、岡野史佳作品については、どこまでいってもプライベートな文章しか書けない、ということに、遅まきながら気が付いてしまったので、こういうところからしか出発できないのが情けないところなんだけど、それでも書かないよりはずっとマシかと思い、どこに向かうのか分からないけれど、何かを書きはじめようと思う(いや実際、メールマガジンという存在が有志によってはじまったときから、それに対して何かを書こうと思ったんだけど実際一文字も書けなかったよホント。うそ偽り無く全くなにも書けなかったのだが、それがどれだけ途方にくれる出来事だったのかということを克明に記すにはこの余白は狭すぎる)。というわけで、プライベートな文章です。読みたい人だけ読んでくれというか、キャラクターでも作家でもなく、作品群というちゅーしょーてきなものに対する一方的なラブレター(笑)なんだろうなあ。別に理由があって好きというわけでもなくて、好きだから好き、なわけで。ほら、よく「××好きだぁぁぁ」とか、伝わらないというか伝えられないようなことを、山に向かって叫んだりするじゃないですか。あんなカンジ。(どんなカンジだ)

  2. まあそれはともかく、フルーツ果汁100%、という作品がある。福岡を舞台にした学園ドラマ、とか、爽やかなラブストーリー、とか、いろいろな括りで語ることは出来ると思うんだけど、この作品は、そういう括りをすり抜けていくような話。(既にいろいろなところで書いてるけど、ある時期までの岡野史佳作品には、さまざまな括りをスリリングにすりぬけていっているという印象がある)

  3. とは言っても、まずは少女まんがである(しかも、最も典型的な少女まんがであるといっても良い)というのは、ジャンルの制約上しかたがないところではある。基本的には(いや応用的にも)ラブコメだし、学園モノだし、主人公のるりちゃんは先輩にあこがれちゃったりしてるし、最後はシャイな男友達と結ばれているし、モノローグ主導だし、そういったところが駄目な人なら、もうそれは少女まんがというフォーマット自体が受け入れ不可能なわけだから、自動的にこの作品も受け入れ不可能でしょう。

  4. でも、そうじゃないなら、一読以上の価値はある。たぶんこの話は、初めて読んだときのインパクトってのはあまり無い。というのは、前述したように、基本的には何の変哲も無い少女まんがだからだ。何の変哲もない、といったのは、少なくとも主人公(るり=そーた)に着目して、話のスジだけを追っていくならば、きわめて常識的なストーリーが展開されているからである。確かに爽やかで少し切ない読後感なんだけれども、たしかに「それだけ」といえば「それだけ」。感想は「面白かったー!」だけで済んでしまう。いやそれでもたいしたもんです。(実際、白泉社がなんでこの作品を文庫で出さないのか理解に苦しみますが、たぶん本当の名作というものは記憶の中に残っているものであって、いたずらに掘り返されるものではないのですとワタシは思ってますがやっぱり売れて欲しいんだよだって絶版になっちゃったりしたら大ショックじゃないですかすでにちょっとなっているんだけど読みたい人が読みたいときに読めるようになっていない作品ってのは絶対に埋もれるしそれは我慢ならぬ!)

  5. そのうちの何人かが、どうしても忘れられなくてしばらくたってふと読み返してみたら、なんかこれはちょっとすごいんじゃない、と思ってしまう(ことがある)んだな。いや、そう思わない人のほうが多いと思うけど、すくなくとも、しばらく経ったあとにもういちど読んでみると、ちょっとすごかったりする。なにがどうすごいのかというと、そんなことがカンタンに書けていたら、自分でドメインとってまでウェブサイトなんかやらないよ、ってカンジなんだけど。ビビっときちゃったわけです。僕は。

  6. その約一年前くらいに倉本深青に(文字通り)一目惚れしてしまって、未だにそれは続いているんだが(やばいって)、それはともかくとして、それはそれこれはこれで、新たなる岡野史佳作品の価値というか面白さというかかけがえのなさにそのとき気づいちゃったんだよね。というのは、こんなに一見フツーの少女まんがなのに、一見脇役のかたがたの描かれ方を丹念に追ってみると、全てのキャラクターと、全てのキャラ間の関係性に、きちんとした並行性があるわけです(「きちんとした並行性」を定義せよ)。というのは、つまり、キャラクターがちゃんと独立していると感じられたということなんです(独立が定義されてないって)。と、はやくも意味不明な言説が展開されております。そのうちつじつまがあえばいいか。(あうのか……?)

  7. ストーリーとキャラクターがどっちが上か、キャラクターがストーリーに従属しているのか、ストーリーがキャラクターに従属しているのか。そんなことを考えても仕方が無いのかもしれないんだけど、ストーリーとキャラクターが独立している、ということがはたしてありえるかどうか、ということが、つまり、カットが積み重なって一つの大きなストーリーが出来上がるわけだけど、そのカットが自立的に組み替わるというのはどういうことなのか、そのトリガーとそれによってなにが起こるのか、ということについて語れれば語りたい。

  8. ……とは思うんだけど、いつも思うが、分析的に読むのが面白いかというとそんなことは絶対にないので(分析的な読解なんて死体解剖みたいなもんだ。切り刻めば刻むほど、生からは遠ざかる。)、もうすこしイベントドリブンというか、特異点だけを切り出してツアーを組んでみたい……と思うけど、実際そんなことができるんだろーか。ていうか、シリアルな叙述形式を選んだけど、それに反してあまりシリアルな展開はしない予定なので(覚書だし)、一旦フルーツ果汁から離れて、個人的には最も対極にあると考えている「オリジナルシン」あたりに寄り道しつつ、オートマタとライフゲイムの人間性について考えていければいいなと思う。

  9. ……わけでもなくて、やっぱし倉本深青というキャラクターについて語りたい。けどさあ、なんつうか、ことごとくオレがほんとにほんとにほんとぉぉぉに好きなものを語ろうとすると、それはほんとに単なる「好き」になっちゃって、好きなんだから好きなんじゃあ、みたいな説明不可能部分に突入しちゃうわけなんだよな。好きなもんに理由なぞあるかい!みたいな。それくらい好きなんだけど。キャラが××とかストーリーが××とか絵柄が××とか、そんな単純な要素に還元できるよーな理由で好きになるくらいだったら、誰も表現に苦労なんぞしない。そうじゃないところに価値を見出しちまったから困ってる。迂回して、屈折して、ぐるっと一回転して、シニシズムに沈んで、強烈にアッパーな瞬間もあって、それでもやっぱり表現できない、みたいな。でもまあ、「語れない」ということについて語ってもしょうがないので、語れる部分だけ語るしかなくて、出来るだけ要素還元しないで語ろうとすると、そんなことできるのか?

  10. だいたいさあ、前に書いたエセ分析的な文章だって、3日間こもって書いたというところに情熱的な(笑)意味があるわけで、論理は穴だらけだし、結局何いいたいんだかよくわからないし、でも情熱だけはあるから迂闊にリライトできないし、今読んでもなんかこう得体の知れない何かがあるよな。まあ、あの頃は一週間のうち半分くらいを岡野史佳作品(キャラクターでもストーリーでも絵柄でもなくゲシュタルトとしての)のために生きてた時期だから、書いちゃった文章にそういう得体の知れない怨念がこもっていても不思議じゃないんだよな、って、まあ普通の人がみたら出来の悪いヨタ文でしかないんだけど。でも、怨念は怨念が凄いから怖いわけじゃなくて怨念が怨念であるからして怖いわけなんだよな(意味不明)

  11. (続くかも)